信濃-常陸(1214-1232年)

関東一円での布教


8.常陸への旅立ち

建暦元(1211)年流罪が赦免された親鸞聖人は、しばらくの間越後国にとどまった後、常陸国(茨城県)へ向かわれます。

越後から離れられた年は定かではありませんが、『恵信尼消息』によると建保2(1214)年には上野国こうずけのくに(群馬県)の佐貫におられたと記されています。

流罪先の越後国府から上野国に至る道程を考えると、国府から南に向かって信濃国(長野県)に至る道が、古くから人や物の流通として使われていたことが知られています。親鸞聖人は恐らくこの信濃を通るルートをたどって、上野国へ入られたと考えられます。

信濃には、7世紀の飛鳥時代に創建されたといわれる古刹・善光寺がありました。親鸞聖人は当時の善光寺に参詣されたと言われています。


9.関東での布教

常陸国に到着された親鸞聖人は、下妻(小島の草庵)に3年ほど逗留された後、笠間郡の稲田の草庵に移り住まれ、この地を拠点におよそ20年にわたって布教を続けられることになります。

時代は源頼朝が鎌倉幕府を開いてから約30年が経過した頃、それまで政治や文化の中心であった京都から、関東が日本の中心となりつつありました。発展途上の関東の地では、まだ十分に浄土教信仰が広まっていませんでしたので、親鸞聖人は敢えてこの地での伝導を決意されたものと思われます。

「念仏を称えるだけで誰もが仏に救われる」という親鸞聖人の教えは次第に人々に受け入れられ、広まっていきましたが、それは一方で、周辺で修験道の行者として崇められてきた弁円べんねんという山伏の弟子や信者を奪うことになり、逆恨みをした弁円は親鸞聖人の命を狙います。呪術を行い、あるいは待ち伏せし、ついには親鸞聖人の草庵に乗り込んで聖人を殺そうとした弁円を、親鸞聖人は穏やかに迎えられ、ともに仏に救われる存在であるとして「同朋」と呼ばれたといいます。心を打たれた弁円は直ちに念仏者となり、親鸞聖人の門弟として教えを説き広めたと伝えられています。

このように、親鸞聖人の教えと生き方は、多くの人々に伝わっていきました。時には請われて下総(千葉県)や下野(栃木県)にまで足を延ばされ、こうした地道な伝道は次第に関東一円の人々に広まり、多くの人々が念仏に帰依しました。親鸞聖人の直弟のうち、とくに高弟といわれる人々は「二十四輩にじゅうよはい」として後世に伝わっています。

また、親鸞聖人は常陸での布教のかたわら、専修念仏の教えを体系的にまとめたお聖教しょうぎょう教行信証きょうぎょうしんしょう』の執筆を進められます。たくさんの経典などを参考にして、何度も筆を加えながら、元仁元(1224)年にほぼ完成されました。

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