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二十四輩第十三 信願
慈願寺(鳥山)
烏山の慈願寺は、開基・信願が下野国上那須郡粟野鹿崎に一宇を建立したことに始まると伝えられる。
江戸期に粟野鹿崎から烏山に移転
寺伝では、信願の俗姓を、那須与市の子孫である那須太郎肥前守資村と伝えている。資村は親鸞聖人の徳を偲び、稲田草庵に参詣し、他力念仏の教えを受け、弟子となり、聖人より信願と法名を賜った。そして粟野鹿崎に道場を開創したといわれている。
慈願寺は時代を経て延宝8(1680)年に、現在地である烏山に寺基を移している。
信願への委嘱
寺伝によれば、親鸞聖人が帰洛して九年後、信願は再び師の給仕役として仕えようとはるばる上洛した。すでに七十歳を越えていた聖人はこの申し出を大変喜んだが、関東の同行を教化するようにと、信願に告げたという。そして自らの真影を形見として信願に授け、「恋しくば南無阿弥陀仏を称ふべし我も六字のうちにこそ住め」と歌を添えたと、伝承されている。
八尾の慈願寺
『大谷遺跡録』の鹿﨑山慈願寺の記事では、信願の俗姓については別の伝承を記している。それによると信願は、新田太郎義俊の子で、常陸国那珂郡鳥喰村に居住していた藤井八郎信親だと記している。
信願の行実について同書では、親鸞聖人の命を受けて河内国に一宇を建立したとされ、これが今の八尾の慈願寺だとしている。そして郷里に戻り粟野鹿崎に一宇を建立したと記している。
また同書によれば、信願が親鸞聖人帰洛の途中、相模国に滞在したときは側に仕えたとされる。聖人帰洛の際、人々がなごりを惜しんだため、信願は聖人の命によりたびたび相模に出向き、鎌倉にも稲荷山浄妙寺という一宇を建立したと伝えられる。この寺は後に三河国赤渋に移ったとしている。
このように信願が各地に道場を創設していたことがうかがえる。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 鹿崎山信寿院粟野坊 慈願寺 |
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住所 | 栃木県那須烏山市中央2-3-15 |
アクセス | JR烏山線烏山駅から徒歩9分。 北関東自動車道宇都宮上三川ICを出て、国道4号線にを北上し鬼怒川橋を渡り、県道に入る。直進12㎞神長トンネルを出て3つ目の信号を越えた先、左側。 |
駐車場 | 有 |
参拝 | 事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 0287-84-1208 |