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二十四輩第九 善性
東弘寺
公家の出正懐親王
結城郡石下町大房の高柳山信順院東弘寺は二十四輩第九番、善性房の開基である。昭和五十一年に屋根を銅板にふき替えた本堂は、広く伸びやかな境内に雄大な姿をみせている。
東弘寺の歴史は、建長二(1250)年に、開基飯沼善性坊が東弘庵処という小さな念仏道場を開いたのが起こりである。寺伝によると善性房は後鳥羽院の三王子但島の宮正懐親王で、順徳院の弟君にあたる人といわれ、出家して比叡山にのぼり、名を周観と改めた。公家の出で、仏門に入ったことなどは、親鸞聖人の出自とよく似ている。
仏教を学んだ周観(正懐親王)は、優秀な成績で将来を嘱望されたが、山上の名利の争いを嫌い、建保六(1218)年二十歳の時に山を降り諸国行脚を決意した。そして、下総国に入り国守豊田四郎治親のもとに留まることになる。ちょうどその頃、親鸞聖人が流罪赥免により、越後から関東に入国したことを聞き、小島(下妻市小島)の地に聖人を迎え、その教化を受け弟子となった。その後、親鸞聖人が稲田の地に庵を結んだ折、他力本願の真髄を学び善性房と法名を授けられたのである。そして、倉持(現石下町倉持)に道場を開き「東弘庵処」と称した。これが東弘寺の草創である。
これに先立ち、豊田四郎治親自身も親鸞聖人の徳を慕い四十歳で法弟となって良信と改めた。後に、この地を離れることになった善性房は、そのあとを良信に譲ったので、良信は東弘寺第二世となっている。
年経って天正年間(1573~91)第十一世定善住職のとき、原野を開拓して倉持から現在の地(石下町大房)に移転した。後幕府より十石の朱印地を下附されたと伝えられる。現在の地名を大房と称するのは、当時の東弘寺の隆盛を象徴している。
鉄舟筆の"高柳山"
古い歴史を持つ東弘寺の本堂は、天井が高く、いかにも堅固なつくりである。天井の真ん中には、門徒の人が大正時代に描いたという龍の絵がありおもしろい。高柳山の柳を龍にもじったのであろうか。また正面には、幕臣であり、勝海舟に協力して西郷隆盛を説いて、江戸を兵火から救った山岡鉄舟筆による"高柳山"の額が掲げてある。太い欅の木で造られた柱や、あちこちの材料が虫に喰われているところに、現本堂の古さの証明と歴史の重みを感じる。本堂の畳の上に座ると、一挙に四百年前の世界に引き戻される思いがする。
善性房と御消息集
親鸞聖人と関東門徒との直接の信仰問題に関する最重要文献として真宗聖教の一つとされているものに「御消息集善性本」がある。現在、高田専修寺に伝来されているもので、その表紙の下方には「釈善性」と書かれ、包紙にも「御消息集一冊 飯沼善性房筆」とあり、東弘寺開基飯沼善性房の編集によるものとみられている。
広い境内には樹齢四百年を超す古い樹木が茂る。柳の大木が聳えたつ様は見る者を圧倒するのに十分だし、東弘寺の歴史を物語るのに余りある。もとは鐘楼堂であった古い山門と本堂もよく溶けあっている。
高柳の 枝葉互いに生いしげる 誓は朽ちぬ印なりけり 覚如上人
寺宝
●絹本著色聖徳太子六臣連座御影像(室町時代)
●絹本著色方便法身御影尊像(室町時代)
●紺紙金泥十字御名号(江戸時代)
●紺紙金泥善導大師御影像(江戸時代)
●薬師如来座像(鎌倉時代、1321年造立)ほか。
『親鸞のふるさと』(新いばらきタイムス社)より引用
※東弘寺様のご意向により掲載しております
正式名称 | 高柳山信順院 東弘寺 |
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住所 | 茨城県常総市大房93 |
アクセス | 関東鉄道常総線南石下駅から徒歩5分。 常磐自動車道谷和原ICを出て、国道294号線常総バイパスを北に約16キロ。 石下高校南交差点を左折して約1キロ。石下土木入口交差点を左折して約500メートル左側。 |
駐車場 | 有 |
参拝 | 事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 0297-42-8701 |