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二十四輩第二十一 唯仏
浄光寺
ひたちなか市の那珂湊は、明治初期まで商港として栄え、現在は遠洋漁船の基地として賑わいをみせる。その西北の館山と呼ばれる小高い丘に、七ヵ寺の真宗寺院が集まっている。これらの寺は元禄9(1696)年、水戸藩主・徳川光圀の命により城下各地から移された。その中に二十四輩の二十一に数えられる唯仏開基の浄光寺がある。
浄光寺の変遷
寺伝によれば、常陸国那珂郡枝川村に館を構えていた藤原隼人佑頼貞が、稲田の親鸞聖人のもとで教えを受け、他力本願の不思議を味わい、貞応元(1222)年に剃髪し唯仏房浄光と法名を賜ったという。
唯仏は聖人から、恵心僧都筆の阿弥陀如来尊像と、聖人直筆の九字名号、十字名号を授けられ、自邸を道場として創建した。これが浄光寺の起こりであるという。当初は「常光寺」と号した。
後世、水戸城主の江戸但馬守重道は、常光寺を信奉し、那珂郡の湊の地に寺領を寄進した。江戸氏没落後、佐竹義宣が寺領を寄進するなど常光寺を尊崇し、天正19(1591)年、水戸城内に寺基が移された。さらに徳川の治世となり、徳川三代家光より、現在の那珂湊の地に朱印地を与えられて移転、「常光寺」を「浄光寺」と改めた。
鹿島神社に祀られていた親鸞聖人像
浄光寺には親鸞聖人の像が伝わるが、これには次のような由来がある。
親鸞聖人は五十七歳のとき、その教えに帰依した鹿島明神と師弟の契りを結んだという。そのとき願いに応じて自刻の像を明神に授けたとされる。その尊像は鹿島神社に安置されていたのだが、時は過ぎて、神社に僧の姿を安置することを嫌った時の神主が、神戸ヶ原(鹿嶋市浜津賀)に埋めてしまった。すると毎夜、光を放つので、人々は恐れて寄りつかなくなったという。このことを聞いた徳川光圀が、浄光寺門徒の飯塚喜兵衛に調べさせたところ、親鸞聖人の御木像が発見されたという。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 衆宝山無量光院 浄光寺 |
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住所 | 茨城県ひたちなか市館山9015 |
アクセス | ひたちなか海浜鉄道湊線那珂湊駅から徒歩10分。 北関東自動車道ひたちなかICを出て、国道245号線を右折。二つ目の信号を左折。そのまま直進し、名平洞にあたると右折。 |
駐車場 | 普通車25台 |
参拝 | 事前連絡が必要 ※ハガキ等で代表者の氏名、連絡先、参拝希望日時、人数、説明希望の有無を記入し寺院宛に発送してください。 |
お問合せ | TEL 029-262-2824 |