二十四輩第二十一 唯仏

浄光寺じょうこうじ

<t_041>浄光寺

ひたちなか市の那珂湊なかみなとは、明治初期まで商港として栄え、現在は遠洋漁船の基地として賑わいをみせる。その西北の館山と呼ばれる小高い丘に、七ヵ寺の真宗寺院が集まっている。これらの寺は元禄9(1696)年、水戸藩主・徳川光圀の命により城下各地から移された。その中に二十四輩の二十一に数えられる唯仏ゆいぶつ開基の浄光寺がある。

浄光寺の変遷

寺伝によれば、常陸国那珂郡枝川村に館を構えていた藤原隼人佑頼貞はやとのすけよりさだが、稲田の親鸞聖人のもとで教えを受け、他力本願の不思議を味わい、貞応元(1222)年に剃髪し唯仏房浄光と法名を賜ったという。
唯仏は聖人から、恵心僧都えしんそうず筆の阿弥陀如来尊像と、聖人直筆の九字名号みょうごう、十字名号を授けられ、自邸を道場として創建した。これが浄光寺の起こりであるという。当初は「常光寺」と号した。
後世、水戸城主の江戸但馬守重道は、常光寺を信奉し、那珂郡の湊の地に寺領を寄進した。江戸氏没落後、佐竹さたけ義宣よしのぶが寺領を寄進するなど常光寺を尊崇し、天正19(1591)年、水戸城内に寺基が移された。さらに徳川の治世となり、徳川三代家光より、現在の那珂湊の地に朱印地を与えられて移転、「常光寺」を「浄光寺」と改めた。

鹿島神社に祀られていた親鸞聖人像

浄光寺には親鸞聖人の像が伝わるが、これには次のような由来がある。
親鸞聖人は五十七歳のとき、その教えに帰依した鹿島明神と師弟の契りを結んだという。そのとき願いに応じて自刻の像を明神に授けたとされる。その尊像は鹿島神社に安置されていたのだが、時は過ぎて、神社に僧の姿を安置することを嫌った時の神主が、神戸ヶ原(鹿嶋市浜津賀)に埋めてしまった。すると毎夜、光を放つので、人々は恐れて寄りつかなくなったという。このことを聞いた徳川光圀が、浄光寺門徒の飯塚喜兵衛に調べさせたところ、親鸞聖人の御木像が発見されたという。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 衆宝山無量光院 浄光寺
住所 茨城県ひたちなか市館山9015
アクセス ひたちなか海浜鉄道湊線那珂湊駅から徒歩10分。
北関東自動車道ひたちなかICを出て、国道245号線を右折。二つ目の信号を左折。そのまま直進し、名平洞にあたると右折。
駐車場 普通車25台
参拝 事前連絡が必要
※ハガキ等で代表者の氏名、連絡先、参拝希望日時、人数、説明希望の有無を記入し寺院宛に発送してください。
お問合せ TEL 029-262-2824

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