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二十四輩第二十二 唯信(外森)
唯信寺
唯信は、若くして世の無常を観じ、たびたび稲田草庵に親鸞聖人を訪ねその教化を受け、二十二歳のとき聖人の弟子となったと伝えられている。聖人の命により奥郡戸森に一宇を建立。これが唯信寺の起こりで、後の寛文7(1667)年、現在地に移った。
深い子弟関係
寺伝によると、唯信は親鸞聖人が関東で布教された間、常に随伴した。また鎌倉において執権・北条泰時の発願により一切経校合が行われたときは、この編纂事業に携わった聖人を助け仕えた。親鸞聖人が京都へ帰るときには、名残を惜しみ形見として御自刻の真影が、唯信に授けられたという。
宍戸氏の念仏信仰
開基・唯信の父は八田知家という。知家は下野国の宇都宮氏の出身で、筑波山の西の麓一帯も支配し、常陸の守護にも任ぜられた。子孫は小田氏として繁栄した。また知家は笠間市の宍戸にも進出し、宍戸氏を名のる有力な子孫もいた。唯信はこの中から出た。
小田氏や宍戸氏は篤い念仏信仰を持っていた。唯信が若くして親鸞聖人に帰依した背景には、こうした一族の念仏信仰があったとも推測できる。
後に宍戸地方には善光寺信仰も入ってきて、新善光寺が建立された。その影響であろう八田知家(宍戸氏の祖として宍戸知家とも称された)は「新善光寺殿」という法号で呼ばれることもあった。
小鶴荘と九条家
常陸国守護所は宍戸氏の所領であった小鶴荘域内に置かれたこともあったと『友部町史』は記しているが、小鶴荘は京都九条家の荘園でもあった。九条家といえば、親鸞聖人の妻として本願寺系図には「九条兼実女と記され、関東には兼実の娘が妻「玉日姫」であるとの伝承も多い。また、九条兼実は法然聖人に帰依したことで知られる。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 外森山西岸院 唯信寺 |
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住所 | 茨城県笠間市大田町436 |
アクセス | JR水戸線宍戸駅から徒歩5分。 北関東自動車道友部ICを出て信号を直進。約600メートル先の信号を左折。約600メートルで、大田町十字路の信号を直進して、約150メートル先を右折。 |
駐車場 | 普通車50台 |
参拝 | 事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 0296-77-0595 |