二十四輩第十六 入信(穴沢)

寿命寺じゅみょうじ

<t_033>寿命寺

開基・入信にゅうしんは、もと佐竹義繁よししげという武士で、常陸国那珂西郡穴沢村(城里町上阿野沢)に隠遁し菩提の道を求めていた。

源頼朝と佐竹氏

佐竹氏は、平安末には平氏と結び常陸の奥七郡おうしちぐん(常陸国の北部一帯)を中心に在地領主として勢力を持っていた。
義繁の父・佐竹秀義ひでよしは、平氏追討に加勢しなかったため源頼朝の攻めに遭い、常陸から奥州花園(北茨城市)の山中へと逃れた。しかし後に秀義は頼朝に帰順を申し出て許され、奥州征伐で軍功を挙げ、鎌倉幕府の御家人となった。寿命寺系図には義繁も父とともに参陣したことが記されている。

佐竹義繁(入信)の求道

二十四輩順拝図会にじゅうよはいじゅんぱいずえ』は、義繁の求道ぐどうの内面に言及している。それによると、義繁は武士の家に生まれたが、人生の無常を観じ、世の栄華や利権を厭い、穴沢の地にて菩提の道を求め、自力の念仏に励み浄土往生を願っていた。ある夜、義繁は不思議な夢を見た。法衣姿の人が現れ「いくら怠りなく称名念仏したとしても、自力の心では何の甲斐もない。親鸞聖人を訪ねて本願他力のご教化を受けよ」と諭されたという。
義繁はこの夢告に従い、親鸞聖人の禅室に行き、弥陀の本願を聞き、自力の心をひるがえして念仏を喜ぶ身となったという。

台山の光明

寺伝によると、義繁が親鸞聖人に会ったのは建保5(1217)年で、このとき入信と法名を授かったという。親鸞聖人は、入信の招請でたびたび穴沢の草庵を訪れたと伝えられる。
ある夜、聖人は一里ほど離れた大畠村の台山に光るものを発見した。入信とともに近づいてみると、土中より光が発していたので、掘り起こしたところ一寸八分の阿弥陀如来が出土したという。聖人はこれを喜び、この場所に一宇を建立、寿命寺と名づけられたと伝えられている。
聖人は、帰洛のときに、台山のこの寺を入信に託したという。入信は、建長4(1253)年ここで八十七歳で往生を遂げたと伝えられる。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 信照山蓮台院 寿命寺
住所 茨城県常陸大宮市野口3042-1
アクセス 常磐自動車道水戸北スマートICを出て国道123号線を20キロ進む。
参拝 事前連絡が必要
※平成21年に全焼したため、現在は参拝不可
お問合せ TEL 0295-55-2051

二十四輩寺院