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二十四輩第八 証性(性証)
蓮生寺
証性の父・畠山重忠は、度重なる合戦に出陣したが、常に阿弥陀如来の軸を肌身はなさず鎧の袖に持っていたという。しかし、幕府内部の政争で命を落とした。
父の形見の阿弥陀如来
重秀(後の証性)は、父・重忠の持っていた阿弥陀如来の軸を形見として身に携え、京都の明恵の門を叩き出家、法名を恵空と名のった。
後に恵空は関東に戻り、親鸞聖人に出会って他力の教えに帰入し、名を証性と改めた。やがて証性は、下野国塩谷荘犬飼の地(栃木県)に草庵を開き、これを蓮生寺と名づけた。村人からは親しく「犬飼の証性」とも呼ばれたという。法灯は一子の証光が後継した。
寛永4(1627)年、蓮生寺第十二世宗覚のとき、現在地の棚倉に寺基を移した。
畠山氏
証性(畠山重秀)の出身である畠山氏は、関東(坂東)八平氏の一つ秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を領していた。証性の父・畠山重忠は、治承4(1180)年8月の源頼朝の平家追討の挙兵に際し、平家方として参陣した。しかし同年十月には頼朝が安房国(千葉県南部)で体勢を立て直し、関東の武士を糾合し鎌倉に進攻するにおよんで、重忠は頼朝の陣へと帰参した。以降、重忠は鎌倉幕府の御家人として活躍した。しかし元久2(1205)年に重忠の子・重保が、幕府の政所別当である北条時政から謀反の嫌疑をかけられ、結局、重忠、重保父子は討ち取られ、畠山氏は滅亡した。
畠山重秀の出家
『吾妻鏡』には、この折に重秀(後の証性)や郎党も自害したと記されるが、『大谷遺跡録』では自害したと見せかけて、ひそかに明恵のもとへ身を寄せて出家し、華厳の法門を学んだと記されている。また『大谷遺跡録』によれば、京都から関東に戻った時期を承元4(1210)年とし、親鸞聖人の門弟になったのは建保2(1214)年、常陸国の小島草庵に参詣のときとしている。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 宝池山浄華台院 蓮生寺 |
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住所 | 福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字新町60-2 |
アクセス | JR水郡線磐城棚倉駅より徒歩5分。 東北自動車道白河ICを出て、国道4号線へ。和尚壇交差点を左折し、約300メートル先の交差点を右折。600メートル先の信号を右折し約20キロ進む。逆川交差点を右折し、一つ目の信号を左斜め方向(県道25号線)に入り、直進約1キロ。 |
駐車場 | 普通車10台 |
参拝 | 事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 0247-33-3463 |