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二十四輩第十九 明法
上宮寺
寺伝によると、開基・明法は、関白藤原忠通の曾孫とされ、幼くして京都の聖護院宮に入門して播磨公弁円と称し、山伏として修験道をきわめたと伝えられる。常陸国金砂の城主・佐竹末賢は、久慈西郡塔之尾(常陸大宮市東野)に護摩堂を建て祈祷所とし、ここに弁円を迎えたという。やがて弁円は、常陸国の修験者の先達として尊崇を集めるようになったと伝えられる。
修験道から転身した弁円
親鸞聖人が稲田に居住した頃より、念仏に帰依する人々は次第に増えてきた。伝承によると、弁円はこれをねたみ、聖人の常日頃の通り道であった板敷山で待ち伏せをして、その命を狙おうと企てたという。しかしうまくいかず、結局、最後の手段として武器を持ち多くの弟子と稲田草庵へと押しかけたのであった。ところが、そこで聖人の尊顔に直面した弁円は、たちまちに害心が消え失せ、悔い改めて弟子となった。
このときの様子を『御伝鈔』は、「その場で持っていた弓を切り、刀を捨て、頭巾を取り、柿渋で染めた衣を改め、仏教(専修念仏の教え)に帰依することになった」と伝えている。今も弁円が真っ二つに折ったという弓と、修験時代に用いていたとされる法螺貝と頭巾が上宮寺に伝わっている。
念仏の教えを通した師弟の信頼関係
この二人の邂逅エピソードの時期については、上宮寺の縁起によると建保2(1214)年、弁円三十五歳のときであったと記される。これは、聖人四十二歳にあたる。
建長4(1252)年、聖人八十歳のときの御消息に、明法の往生の知らせを受けた聖人が「かえすがえすもうれしいことです」と、念仏者としてみごとに生き抜いたその一生を、感慨深く語っている。
寺基の推移
上宮寺は、明法が活動拠点としていた塔之尾楢原に、承久3(1221)年、新たに開いた念仏道場に始まる。天正5(1577)年に那珂市額田に移り、さらに天正11(1583)年に現在の那珂市本米崎に寺基を移した。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 楢原山正法院 上宮寺 |
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住所 | 茨城県那珂市本米崎2270 |
アクセス | 常磐自動車道東海PAのスマートICを出て、額田方面に右折。約1キロ先に楢原山上宮寺の看板が左側に出ているので、そこを左折。 電車:JR常磐線東海駅からタクシーにて15分。 |
駐車場 | 普通車30台 |
参拝 | 団体の場合事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 029-298-1549 |