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二十四輩第五 信楽
弘徳寺(新堤)
新堤(現在の八千代町新地)の弘徳寺開基である信楽は、俗姓を相馬三郎義清という。義清は、守り本尊の薬師如来の夢告により、小島草庵に親鸞聖人を訪ね弟子となり信楽という法名を賜った。そして自邸を道場としたのが弘徳寺の起こりと伝えられる。
祖父・千葉常胤と源頼朝
信楽は、武家の一門に生まれた。父は下総の相馬御厨の領主となった相馬次郎師常で、さらに師常の父は下総一帯に勢力をもっていた千葉常胤である。信楽からすれば祖父となる千葉常胤は、源頼朝に従い数々の軍功を挙げ、頼朝からは深い謝意と手厚い処遇を受けた。
父・相馬師常と法然聖人
信楽の父・相馬師常も、幕府の御家人としての半生を送るが、常胤亡き後建仁元(1201)年に出家し、法然聖人の弟子となった。また、この年親鸞聖人も法然聖人のもとに入門している。
師常は元久2(1205)年、六十七歳にて寂したが、その最期の様子を『吾妻鏡』には「時しも端座合掌して動揺せず、決定往生敢えて疑いなし。是れ念仏の行者也。結縁と称し、道俗挙げて是を集拝す」とあり、鎌倉の館には師常の往生に結縁しようとする人が集まったことが記されている。信楽が親鸞聖人を訪ね弟子となった背景には、父・師常の一途な念仏信仰の影響があったと推察される。
信楽の異議
覚如が編述された『口伝抄』には、信楽が、聖人の教えに異義を唱えて、一時期門下から離れたことが記されている。この事件で門下の蓮位が、親鸞聖人が授けた本尊や聖教は取り返すべきだと主張したところ、親鸞聖人は「決して取り返してはならない。親鸞は弟子一人も持っておらず、みな如来のお弟子でともに同行なのである。本尊と聖教は衆生利益のために如来がさし向けてくださった方便であるから、自分のものであるかのように勝手に取り扱うべきではない」(趣意)と語り、信楽を責めることはしなかった。
信楽は晩年、東国に下向してきた覚如にこの前非を悔いて許しを受け、再び親鸞聖人の門流として教化に勤しんだという。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 新堤山宗智院 弘徳寺 |
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住所 | 茨城県結城郡八千代町大字新地547 |
アクセス | 常磐自動車道谷和原ICを出て、国道294号線常総バイパスを北に約25キロ、高木川西立体交差点を左折して国道125号線に入り約8キロ(途中鬼怒川を越える)。沼森交差点を左折して約1.5キロ右側。 |
駐車場 | 普通車20台 |
参拝 | 事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 0296-49-1623 |