二十四輩第一 性信

報恩寺ほうおんじ(下総)

<t_001>報恩寺

性信しょうしんは俗姓を大中臣基久おおなかとみもとひさといい、鹿島神宮の宮司・大中臣宗基むねもとの息男と伝えられる。十八歳のとき、熊野権現くまのごんげんに参詣し神託を受け、京都の法然聖人のもとに行き仏門に入ったという。
法然聖人は親鸞聖人に性信の教化きょうけを命じたという。以来、性信は親鸞聖人の側に仕え、承元の法難で越後に配流はいるに処されたときも同行したと伝えられる。

報恩寺の由来

流罪赦免となった親鸞聖人は、やがて関東に移る。報恩寺の寺伝によると、親鸞聖人を関東へと招いたのは、性信とその従兄の小島郡司おじまぐんじ武弘たけひろであり、親鸞聖人が最初に滞在したという小島草庵おじまのそうあんの地も武弘の所領であったという。
建保2(1214)年、関東布教中の親鸞聖人は、下総国しもうさのくに岡田郷横曽根よこそね(現・常総市豊岡町)で無住となっていた大楽寺という真言宗の寺をもらい受け、念仏道場として性信に託したという。これが報恩寺の始まりであると伝えられる。
性信は親鸞聖人が関東の地を去り京都に帰った後も、ここを中心に布教した。性信の教えを受けた門弟集団は「横曽根門徒よこそねもんと」と呼ばれた。

性信荼毘塔

報恩寺の横門を出て寺の裏手へと歩くと、杉の古木に囲まれた丘に性信の墓がある。
墓の左側には荼毘塔があり、そこには「建治元年七月十七日寂ス」と刻まれ、親鸞聖人往生後十余年を経た1275年に往生したことがうかがえる。性信は文治3(1187)年生まれとされるので、八十九歳で生涯を終えたことになる。

江戸への移転と旧地の復興

報恩寺は慶長5(1600)年、下館しもだての水谷氏と下妻しもつまの多賀谷氏との争いで兵火に遭い、江戸へと寺基を移した。今の東京上野にある報恩寺がそれである。
旧地においても法灯ほうとうは護られ、文化3(1806)年、現在の本堂が再建された。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 高龍山謝徳院 報恩寺
住所 茨城県常総市豊岡町丙1586-1
アクセス 磐自動車道谷和原ICを出て、国道294号線常総バイパスを北に約7キロ、新井木交差点を左折して国道354号線に入り約3キロ(途中鬼怒川を越える)。西中入口交差点を右折して約800メートル右側。
駐車場 普通車30台
参拝 事前連絡が必要
お問合せ TEL 0297-24-2580

二十四輩寺院