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二十四輩第十一 無為信(無為子)
無為信寺
無為信寺の寺伝によれば、無為信の俗姓は武田信勝といい、武田信義と鹿島神宮の大宮司権頭の娘の間に生まれた武士であったと伝えられる。信勝は、常陸稲田に逗留中の親鸞聖人を訪ね帰依して門弟となり、法名を無為信(無為子ともいう)と名のった。聖人帰洛後は、その命を受けて奥州教化に従事し、奥州会津門田町一ノ堰に一宇を建立したと伝えられる。
無為信寺の変遷と下越での復興
その後、無為信寺は承応3(1654)年に内藤氏によってその城下の奥州棚倉(福島県白河郡棚倉町)へ招かれ移転した。さらに宝永2(1705)年、内藤氏の移封に伴い駿河国田中(静岡県藤枝市)へ移転。しかしまもなく法灯は途絶え、享保年間に京都の東本願寺内に移管された。
宝暦10(1760)年に、越後の下条村の大地主であった佐藤伊左衛門の発願と尽力により、現在地での復興に至った。
無為信と親鸞聖人
『二十四輩順拝図会』には、信勝が聖人の弟子となった経緯が次のように記されている。
奥州綾和の館の庭先に、山蟻が巣を作り、虫などを運んで蓄えていたが、雀が二羽飛んできてたちまちに巣を壊して蟻を皆食べた。これを見た信勝は「今は乱世が落ち着いているが、人の心は虎狼のようで、他人の所領を奪おうと合戦をいどみ、弱いものはたちまちに滅び、強いものも暫くは勢力を持つが、五十年の命を保つものは少ない。自分はこの道理をわきまえずに武をみがいてきたが、全く愚かであった」と気づき、師を求め稲田に親鸞聖人を訪ねたとしている。
無為信寺の旧地はどこか
無為信寺発祥の地が会津のどこか今のところ確定されていないが、無為信の墓が会津若松市門田町一ノ堰の天台宗光明寺にあることから、このあたりではないかと推測される。
現在の無為信寺・武田真住職によると、門田の大関という地区では二十一世帯あるうち、十二世帯が真宗門徒で、無為信の教化を受けたとする言い伝えが今も残っているという。また光明寺には無為信の出身である武田家の墓も現存しているという。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 仏性山金剛院 無為信寺 |
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住所 | 新潟県阿賀野市下条町8-21 |
アクセス | JR越本線水原駅から徒歩7分。 日本海東北自動車道新潟亀田ICを出て、国道49号線に入る。15キロほど先の安野町交差点を右折し国道460号線を直進。その先約500メートル。 |
駐車場 | 普通車10台 |
参拝 | 事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 0250-62-2676 |