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二十四輩第十二 善念
善重寺
真宗初期からの諸縁を伝える
善重寺は親鸞聖人に直接面受した弟子の善念を開基とし、常陸国桜川もしくは笠間の近くに貞永1(1232)年開創したとされ、木造聖徳太子立像(国重要文化財)、雲乗の弥陀(市有形文化財)、聖徳太子絵伝断簡(市有形文化財)、金泥十字名号、高僧連坐像、親鸞の妻恵信尼像など貴重な初期真宗法宝物を多数所蔵している。覚如・蓮如の来訪伝説を有し、戦国時代に本願寺と密接なつながりがあり、織田信長勢と戦った石山合戦に軍功があったとされることから、本願寺歴代(証如・顕如・教如)からの書状と本願寺坊官下間頼賑・了明・頼龍の副状をも所蔵している。本願寺の東西分派にあたり早期から常陸坊主衆と門徒を牽引して教如を支持したことにより一時退転したが、江戸時代には水戸藩初代徳川頼房の外護があり、特に二代藩主光圀によって寛文7(1667)年、坂戸(酒門)の現在地に移転再興した。この光圀の公許は真宗旧蹟再興の第一番目に位置し「寛文の善重寺坂戸中興」といわれ、藩の仏教政策の上でも重きを置かれたことが伺われる。延宝7(1679)年には東本願寺十六代一如の水戸下向が成り、善重寺を拠点にした教線拡張が進められた。このことが現今の常陸東部における宗派体制の確立ともなった。
藩内外の真宗寺院と本山をつなぐ窓口
江戸時代200年間に渡り水戸藩内の東本願寺系寺院・門徒の触頭としての役割を担い、また、東本願寺一如とのつながりも深かった善重寺には、関係する一如・光圀・綱條(三代藩主)の書状が伝存するほか、加えて近世文書としては、地方宗務を機能させるに使われた寺社奉行所からの達書や藩内の「全祠寺便覧」(全一三六〇余寺社登載)、これに真宗寺院への回状、東本願寺歴代・家臣からの書簡類などがまとまって現存している。
幕末・明治の護法運動と岡倉天心の出現
幕末期、九代藩主斉昭の廃仏策に善重寺は必死の抵抗をして、これを上聞した東本願寺十九代達如はその護法を讃えて、寿像(現存)を下されたが、その甲斐もなく斉昭没後の明治1年、今度は水戸天狗党兵火によって境内は灰塵に帰した。しかし、真宗初期からの法宝物や崇敬物は事前避難によって難を逃れて無事であった。なお、近代文書については、この時罹災を免れた「木造聖徳太子立像」の国宝(大正4年当時)指定に関する九鬼隆一・岡倉天心の動向や渋沢栄一らの関与もがうかがえる書簡・記録など、近代文書群が残され注目されている。
天狗党襲来から復興へ
明治中期からは、中央政財界・美術界・学者の人士と門徒の幾多の援助を得て伽藍再興は太子堂大正2年、本堂昭和6年、鐘楼堂昭和28年と再建を遂げた。寺観は、今に法灯800年になんなんとする関東屈指の名刹として参拝者を迎えている。
ホームページ掲載にあたり、善重寺様より提供
正式名称 | 遍照山光明院 善重寺 |
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住所 | 茨城県水戸市酒門町2096-2 |
アクセス | 北関東自動車道茨城町東ICを出て北上。国道6号線酒門六差路交差点を左前方浜田方面に。約1キロ先の酒門共同墓地入口看板を目印に左折。 |
駐車場 | 普通車25台(バスも可) |
参拝 | 9:00~16:00 ※事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 029-247-5057 |