二十四輩第十四 定信

願船寺がんせんじ

<t_031>願船寺

願船寺は建保2(1214)年に常陸国押領使おうりょうし・佐竹末堅すえかたが、石神の地に堂宇どううを建立し祈祷所としたのが始まりとされる。開基住持じゅうじとして招かれたのが、三井寺の安信法印堯範阿闍梨あんしんほういんぎょうはんあじゃりという僧で、後に親鸞聖人の弟子となった定信じょうしんのことである。
願船寺の寺伝では、安信法印と親鸞聖人の出会いは承久元(1219)年とされる。安信は、夢に聖徳太子が現れ、稲田の親鸞聖人のもとを訪ねるよう教示を受けたという。これに従い聖人の弟子となり、法名を定信と授かったと伝えている。定信は、親鸞聖人が創設した大山草庵も受け継いだ。
定信亡きあとは、小松川紀伊守こまつがわきいのかみ義明よしあき義照よしてる兄弟が出家し、それぞれ法名を善明・学明と名のり、善明が大山草庵を、善明の弟の学明が願船寺を引き継いだ。

徳川光圀と願船寺

願船寺は開基から十二世住職まで「願泉寺」と称していた。江戸期にそれまでの領主・佐竹氏が秋田へ国替えとなり、あらたに徳川氏が水戸藩領を知行するようになった。
水戸二代藩主・徳川光圀(1628~1701)はたびたび願泉寺に立ち寄り、願泉寺にある湧泉の水を茶立てに愛用したという。正月三カ日は、晩年住んだ西山荘まで水を運ばせ、その茶水料として二段二畝の土地を寺に寄進している。
その光圀の意向により、親鸞聖人の教えに適うよう「願船」という言葉をもって寺号を改めたと伝えられている。

水戸藩による廃仏毀釈

弘化3(1846)年、願船寺は水戸藩主・徳川斉昭による廃仏毀釈を受け、十間四面の本堂を始め伽藍すべてを焼失した。時の住職・学玄がくげんは、身の危険を顧みず、すぐに復興に取りかかるとともに、
江戸の浅草御坊ごぼうや京都の本山東本願寺に、藩主の所業の不当を訴えた。本山から幕府への働きかけもあり、藩主・斉昭は江戸藩邸に蟄居を科せられる身となっている。安政2(1855)年9月、学玄の活躍によって本堂の再建工事もほぼ終わろうとしたとき、学玄は藩の刺客によって本堂屋根から突き落とされ最期を遂げた。学玄の身命を賭した尽力で法灯は守り抜かれてきている。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 華輪山真風院 願船寺
住所 茨城県那珂郡東海村石神外宿1047
アクセス 常磐自動車道日立南太田ICを出て、国道6号線を水戸方面に向かい、約2キロ先の石神十字路を左折。とうかい薬局のある交差点を左折。約1キロ先を右折。願船寺入口の石碑が見えたら右折。
駐車場
参拝 事前連絡が必要
お問合せ TEL 029-282-8515

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