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二十四輩第三 順信
無量寿寺(富田)
富田の無量寿寺は、鳥栖の無量寿寺と同じく、親鸞聖人の直弟子で二十四輩第三の順信房信海が開基と伝えられている。
寺伝では、順信の俗姓は、鹿島神宮宮司であった片岡尾張守藤原信親の一子、信弘と伝えられている。順信については、鳥栖の無量寿寺が信親とするのに対し、富田の無量寿寺では、その子息の信弘とする。
塔の峰の草庵
無量寿寺の伝承によると、親鸞聖人は稲田の滞在中、鹿島・行方地方へ布教に行くとき、この辺りを通っていたという。富田無量寿寺の伝承によると、現在の寺地より一キロほど離れた巴川流域に塔の峰(塔山)という場所があり、そこには親鸞聖人が休憩所として設けた草庵があったという。
開基・順信は、鳥栖の無量寿寺に住して活動していたが、七十歳の頃になって、塔の峰の草庵に隠居したという。地元では「鳥栖の隠居所」あるいは「かくれ場所」と呼ばれていた。これが富田無量寿寺の起こりと伝えられている。
その後、二回の火災や台風等による災害に遭い、慶長10(1605)年、塔の峰より一キロ程離れた現在地に移転した。
鹿島明神の帰依
寺伝によれば、親鸞聖人が稲田に在住していた頃、仏法聴聞に集う人々の中に百日間熱心に日参する白髪の老人がいた。老人が弟子入りを願い出たところ、聖人は快く引き受け法名を釈信海と授けた。老人は大喜びで立ち去ったという。
後日、この老人が鹿島明神の化身であったという話が広まり、これを耳にした宮司の片岡信親が、社殿の戸帳を開いてみると「信海」の法名が書き置かれてあったという。信親は改めて親鸞聖人の偉大さを感じ、稲田草庵に聖人を訪ね「吾に一子あり、不肖の者ながら御弟子になしたまえしか、吾身は明神に仕え、一子は仏に仕えさせたまわん」と、わが子の仏門入りを頼み込んだという。
弟子入りを許された子息・信弘は、順信と名のり、やがて鹿島・行方地方の教線拡張の中心的人物となった。
また、幽霊済度の伝承にちなむ掛け軸がある。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 光明山無碍光院 無量寿寺 |
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住所 | 茨城県鉾田市下富田542 |
アクセス | 南関東自動車茨城空港北ICを出て、鉾田市街方面に約4キロ進み、上富田交差点を右折。約500メートル進み信号を左折して約300メートル先 |
駐車場 | 普通車50台 |
参拝 | 事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 0291-36-2800 |