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二十四輩第八 証性(性証)
青蓮寺
青蓮寺は親鸞聖人の直弟の性証ゆかりの寺である。
性証は俗姓を畠山重秀といい、父・重忠は、源頼朝の忠臣として活躍した鎌倉幕府の御家人である。だが頼朝没後、元久 2(1205)年、幕府の政所別当として権力を握っていた北条時政らによって謀反の嫌疑をかけられ、父・重忠および兄弟の重保は、討ち取られている。
重秀は出家の道に入り、京都栂尾の高山寺明恵の弟子となり、初めは恵空と号し、華厳の法門を学んでいたと伝えられている。
青蓮寺の前身
「皇跡山青蓮寺略縁起」によると、同寺の由来は、天智天皇の弟・浄見原皇子(後の天武天皇)が常陸に下向したときに滞在した御殿で、ここに仏像と聖徳太子の尊像を安置したことに始まる。その後五百余年を経て、後鳥羽院の皇子である周観(後に親鸞聖人直弟子となる善性)がこの地に逗留し、玉跡山極楽院瑞厳寺という天台宗の寺に改めた。これが青蓮寺の前身といわれる。
聖徳太子の夢告
栂尾の明恵のもとで学んだ恵空(重秀)は、父・重忠と兄弟・重保を弔うために東国に下った。建暦2(1212)年、常陸国を遍歴中、瑞巌寺の太子堂に逗留した夜、重秀の夢に聖徳太子が現れ、稲田の親鸞聖人のもとを訪ねるようにと告げた。稲田にて重秀は聖人から、本願念仏の法のみが末代に相応した道であるとの教示を受け、ただちに弟子となり法名を性証と改めた。このとき性証は二十四歳であったと青蓮寺には伝わっている。
建保6(1218)年、性証は親鸞聖人に巡り会う縁となった瑞厳寺を、念仏の道場として再興した。
その後、親鸞聖人が帰洛するときに、性証は形見として聖人自刻の像を授かり、この寺に安置し、給仕したという。
ある夜、性証は、夢に聖人と聖徳太子が一茎の青い蓮に座しておられる姿を見て、寺号を「青蓮寺」と改めたと伝えられる。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 皇跡山極楽院 青蓮寺 |
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住所 | 茨城県常陸太田市東連地町200 |
アクセス | 常磐自動車道那珂ICを出て、国道349号線旧道に。上河合十文字を左折。約8キロ北上し、玉造十文字を左折し山田川の橋を渡り、栗原商店前を右折。1キロ北上し右折。 |
駐車場 | 普通車20台 |
参拝 | 事前連絡が必要 ※寺に入る道が狭いため、大型バス不可。大型バスの場合、手前に駐車。 |
お問合せ | TEL 0294-85-0933 |