用語集

嘉禄の法難かろくのほうなん

法然上人の没後におきた専修念仏への弾圧事件。

嘉禄3(1227)年、比叡山が専修念仏の停止を朝廷に申し入れるとともに、東山吉水にあった法然上人の墓所を破却することを計画した。翌7月には、比叡山の申し入れを受けて朝廷では念仏弾圧が行われ、法然上人の門弟であった隆寛・幸西・空阿が流罪となり、その他の門弟40人が捕らえられた。また同年10月には、法然上人の主著である『選択集』の版木が、比叡山の僧によって焼き払われた。さらに、破却を免れるため改葬された法然上人の遺骸は、翌安貞2(1228)年1月に京都西山の粟生(現・長岡京市)に移されて荼毘に付された。

教行信証きょうぎょうしんしょう

親鸞聖人の著作であり、全6巻からなる浄土真宗の根本聖典。
表題は『顕浄土真実けんじょうどしんじつ敎行証文類きょうぎょうしょうもんるい』である。真宗十派(真宗教団連合)では、親鸞聖人が『教行信証』を制作したことをもって立教開宗とし、元仁元年(1224年)4月15日に草稿本が完成したとされ、4月15日を「真宗立教開宗記念日」と定めている。

教化きょうけ

衆生を教え導くこと。悪人や仏法を疑いそしるものなどあらゆる人を真実の教えに導き入れること。『仏説無量寿経』には「無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ」と説かれている。

御消息ごしょうそく

消息とは手紙や手紙の形式をとった法語などをいい、これを尊称して御消息という。親鸞聖人の消息は43通が知られ、教義に関する根幹的な見解が記されている。

御真影ごしんねい

親鸞聖人の姿を写した木像。

真宗教団連合しんしゅうきょうだんれんごう

真宗十派が、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ御同朋の教団として結成した組織。大正12(1923)年に「真宗各派協和会」として発足し、昭和44(1969)年には「真宗教団連合」として共同宣言を発表。不安と混迷の現代社会において、浄土真宗の教えと立場を鮮明にするため行動することを目的とし活動している。

真宗教団連合のあゆみ

真宗教団連合 共同宣言

真宗十派しんしゅうじゅっぱ

親鸞聖人を宗祖と仰ぐ浄土真宗の十宗派。浄土真宗本願寺派(西本願寺)、真宗大谷派(東本願寺)、真宗高田派(専修寺)、真宗佛光寺派(佛光寺)、真宗興正派(興正寺)、真宗木辺派(錦織寺)、真宗出雲路派(毫攝寺)、真宗誠照寺派(誠照寺)、真宗三門徒派(専照寺)、真宗山元派(證誠寺)から成る。真宗十派は「真宗教団連合」を結成し、共に活動している。

真宗教団連合 加盟宗派

自然法爾じねんほうに

浄土往生は念仏の行者のはからいによるのではなく、阿弥陀如来の本願のはたらきのよってなされるものであり、これこそがまさに他力本願であると示す言葉。
正嘉2(1258)年、門弟である下野国(栃木県)高田の顕智が京都の親鸞聖人を訪ねた際に、授けた「自然法爾の事」という法語に記されている。

承元の法難じょうげんのほうなん

後鳥羽上皇によって法然上人の門弟4人が死罪とされ、法然上人と親鸞聖人ら門弟7人が流罪にされた事件。建永の法難とも言う。
元久元(1204)年、比叡山から法然門下のふるまいに対して抗議がなされた。これに対して法然上人は、門弟たちを戒める『七箇条制誡しちかじょうせいかい』を記し、門弟に署名させることで事態の鎮静化を図った。しかし、その翌年には奈良の興福寺からも、「念仏停止ねんぶつちょうじ」による念仏集団の処罰を求める奏状が朝廷に提出される。
当初朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり、比較的静観していたが、承元元(1207)年、事態を一変させる事件が起こる。
後鳥羽上皇が紀伊国の熊野に参詣中、法然上人の弟子・安楽と住蓮が行っていた念仏会ねんぶつえに、上皇に仕えていた女官が参加し、出家して尼になる者があった。これに上皇は激怒し、ついに朝廷は専修念仏の停止(禁止)を決定する。安楽や住蓮を含む4名の門弟を死罪とし、法然上人はもちろんのこと、親鸞聖人を含む門弟7人も連座して還俗のうえ流罪という厳しい処罰が下った。法然上人は藤井元彦の名で土佐国へ、親鸞聖人は藤井善信よしざねの名で越後国・国府に流された。

選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう

建久9年(1198年)、関白九条兼実の要請によって、法然上人が撰述した2巻16章の聖教。「浄土三部経」の経文を引用し、それに対する善導の解釈を引き、さらに法然上人自身の考えを述べている。末法においては選択本願(第18願)の念仏だけが相応の教えであると説く。浄土教において重要な文献の1つであり、親鸞聖人は元久2(1205)年に法然上人から書き写すことを許された。

専修念仏せんじゅねんぶつ

専ら称名念仏を修すること。一向専修・一向専念ともいう。法然上人が提唱した教え。建仁元(1201)、親鸞聖人は、法然上人に出会い、専修念仏の門に帰入した。

他力本願たりきほんがん

「他力」とは、すべての人を救い取るという阿弥陀仏のはたらきであり、「本願」とは、すべての人を救いたいという阿弥陀仏の願いである。

親鸞聖人は「他力とは本願力なり」と述べ、一切衆生の救済はこれによって成立することを明らかにされた。

歎異抄たんにしょう

親鸞聖人の没後、常陸国河和田の唯円が記したとされる親鸞聖人語。18章からなり、前半10章は親鸞聖人の言葉を記し、後半8章は唯円の意見を述べ、親鸞聖人の教えに背く異義を批判する。浄土真宗の聖典。
親鸞聖人が「善人なをもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」と述べたとされる悪人正機については、第3章に記されている。

得度とくど

一般には迷いの世界を渡り、さとりの世界に到ること。僧侶となること。またそのための儀式。

二十四輩にじゅうよはい

親鸞聖人の多くの門弟の中でも、特にその教えを正しく理解し伝えた24人の高弟。また、彼らを開基とする寺院を指す。

二十四輩寺院

非僧非俗ひそうひぞく

親鸞聖人は、流罪によって僧籍を剥奪されたことから、公的には僧侶ではなくなったが、法衣をつけて念仏者として、一生仏道を歩まれる立場であることを宣言された言葉。

法然上人ほうねんしょうにん

(1133年-1212年)浄土宗の開祖。比叡山で修行を積むが、43歳の時に下山し、「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば、阿弥陀如来によって平等に救われるという専修念仏の教えを説かれた。

末法まっぽう

釈迦の入滅後、時が経つにつれ、その教えが衰退していくという考え方。正・像・末の三時のひとつ。像法の後、一万年つづくという。日本ではおもに永承7(1052)年から末法の世が始まると信じられていた。親鸞聖人は、552年に末法に入るという説をとっている。

名号みょうごう

仏・菩薩の称号をさすが、浄土真宗では、阿弥陀仏の名を指す。名号とは、衆生を摂取して捨てないという仏のはたらきをあらわす。六字名号は「南無阿弥陀仏」、九字名号は「南無不可思議光如来」、十字名号は「帰命尽十方無碍光如来」を示す。