近江-京都(1232-1263年)

執筆活動に心血を注ぐ


10.帰洛

常陸で教えを広め、およそ20年間の歳月が過ぎた後、親鸞聖人は京都へ戻ることを決意されます。

親鸞聖人が京都へ帰られる直前、京都では「嘉禄の法難かろくのほうなん」(1227年)という専修念仏弾圧事件が起こっています。法然聖人が亡くなられてから15年経った京都で、再び専修念仏が危機に際したことは、親鸞聖人の帰洛のきっかけとなったと思われます。

また、親鸞聖人自筆の『教行信証きょうぎょうしんしょう』(坂東本)の研究から、常陸でほぼ完成していた『教行信証』に、帰洛後も晩年に至るまで、加筆修正が行われていたことがわかっています。長年にわたって執筆し続けた『教行信証』の完成にあたり、必要な文献資料が関東では不足していたことが、京都へ戻られた大きな理由であると言われています。

親鸞聖人は妻の恵信尼さま、末娘の覚信尼さま、長男の善鸞らとともに京都へ戻られ、その後はふたたび常陸の地を踏まれることはありませんでした。


11.教行信証の執筆

親鸞聖人は、京都に戻られてから十数年の間は、『教行信証』の執筆のみに没頭されたと言われています。

先にも触れましたが、『教行信証』は常陸においてほぼ完成していたと思われ、その中で親鸞聖人が「わが元仁元年」と明記された年、元仁元(1224)年は『教行信証』の草稿が完成した年として、後に浄土真宗の「立教開宗」の年とされています。しかし、親鸞聖人自筆の『教行信証』(坂東本)には親鸞聖人の60代の筆跡と80代の筆跡が混在することから、晩年近くまで添削を続けられたことがわかっています。

親鸞聖人が75歳の年、寛元5(1247)年には、門弟の尊蓮が『教行信証』を書き写すことを許されていますので、この時には一定の完成を見たと思われますが、その後の80歳代になっても『教行信証』をより良いものとするために心血を注がれ、さらなる完成をめざされました。

さらには、宝治2(1248)年76歳で『(浄土和讃じょうどわさん』『浄土高僧和讃じょうどこうそうわさん』を書かれると、以後約10年間の間に『唯信鈔文意ゆいしんしょうもんい』『浄土文類聚鈔じょうどもんるいじゅしょう』『愚禿鈔ぐとくしょう』『一念多念文意いちねんたねんもんい』『浄土三経往生分類じょうどさんぎょうおうじょうもんるい』ほか多くの著作を精力的に執筆されます。老いを迎えながらもなお、教理のさらなる探求と研鑽に邁進された親鸞聖人の熱意が伺えます。


12.往生

親鸞聖人の晩年、子の善鸞と覚信尼を京都に残し、妻の恵信尼さまとそのほかの子供たちは越後に帰されました。恵信尼さまは実家である三善家の財産を継がれたと考えられています。

京都の親鸞聖人の元には、しばしば関東から門弟たちが訪れました。親鸞聖人が86歳の時に訪ねてきた下野高田の顕智には、「自然法爾じねんほうに」という他力本願の境地について語られ、ご自身が生涯をかけて「阿弥陀仏の本願にまかせきる」という境地に到達されたことを示されています。

親鸞聖人は、90歳になられた弘長2(1263)年冬に弟の尋有じんうの住まいであった善法院で体調を崩し、徐々に衰弱されました。床につかれてからは、世俗の話は口にせず、ただ仏の御恩について話し、ひたすら念仏を称え続けたといいます。そして、お釈迦様が入滅された姿と同じように、頭を北にお顔を西に向け右脇を下にして臥した姿で、ついにはお念仏の声は絶え、往生されました。

90年に及ぶ波乱の生涯を閉じられた親鸞聖人のご遺骸は、翌日、東山の延仁寺で荼毘に付され、さらに翌30日に拾骨が行われて、その北の大谷という地にお墓が営まれました。

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京都にある本山寺院