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流罪となって越後へ
6.流罪となって越後へ
親鸞聖人が吉水の法然上人の元で、専修念仏への理解を深められておよそ6年の歳月が流れた承元元(1207)年「承元の法難」と呼ばれる大事件が起こります。
ことのあらましは、後鳥羽上皇が紀州・熊野に参詣中、法然の弟子の安楽や住蓮が行っていた念仏会に、上皇に仕えていた女官が参加し、出家してしまったのです。上皇はこれに激怒し、また他宗派による専修念仏批判の声が大きかったこともあり、朝廷は念仏の禁止の決定を下します。そして安楽や住蓮を含む4名の門弟が死罪、法然上人と親鸞聖人を含む7人の弟子たちが還俗のうえ流罪という厳しい処罰が下されました。法然上人は土佐国へ、親鸞聖人は越後国へと流されます。
親鸞聖人は、大津から琵琶湖を北上、越前・越中を経由したのち海路を経て、越後国の居多ヶ浜に到着されます。
7.越後での生活
流罪となった親鸞聖人は「もはや私は僧ではなく、かといって世俗の者でもない」と、「非僧非俗」の立場を宣言され、これ以降「愚禿釈親鸞」と名乗られるようになります。
越後で親鸞聖人は妻の恵信尼様と子どもたちとともに暮らされました。親鸞聖人がいつどこでご結婚されたのかは定かではありませんが、僧侶の妻帯が許されていなかった当時において、結婚が念仏の道の妨げにはならないと確信して結婚されたのは確かです。男尊女卑の時代にありながら、「信心に貴賤や聖俗の区別はなく、男女の差別もない」とのお考えが伺えます。
恵信尼様は、教養の高い女性でした。親鸞聖人は9歳年下の恵信尼様のことを、ともに信心の道を歩む者として尊敬されていたといいます。流罪後の親鸞聖人を恵信尼様が支えられたのは想像に難くありません。
越後の厳しい自然環境のもとでの生活は、想像を絶するものでした。しかし親鸞聖人は、一日一日を精一杯必死に生きる人々の生活のなかに、人間が人間として生きる厳しさと、その中で本願念仏に生きる姿を深く感じられます。親鸞聖人は、すべての人が同じく等しく救われていく道として、念仏の教えを伝えていかれました。
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