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二十四輩第二十三 唯信(幡谷)
信願寺
唯信は、俗姓を幡谷次郎信勝という武士で、橘村幡谷(茨城県小美玉市幡谷)の城主であったと伝えられる。
観音の夢告
信願寺の伝承によれば、幡谷次郎信勝は、自らの持仏として観音像を尊崇していた。建保4(1216)年8月13日夜のこと、その観音像が信勝の枕辺に現れ、「汝城主の位高けれども七宝久しく留まらず。唯今城下に休む聖人のご教化を受けずんば無量永劫仏縁あるべからず直ちに出でて聞法の人となれよ」と夢告を受けた。信勝が戸外に出てみると、親鸞聖人が弟子とともに月をめでながら念仏を称えていた。信勝は聖人に夢のことを打ち明けて城内に招き入れ、聖人から他力本願の妙旨を聞き、夜明けとともに心の闇も晴れて、弟子となり法名を唯信と授かったと伝えられる。
鹿島神宮への通り道
この出来事は、親鸞聖人が稲田から鹿島神宮へ参る途中のことと伝えられる。幡谷城があった幡谷は、霞ヶ浦の北部の東岸に位置し、この辺りには他にも親鸞聖人の伝承がある。小美玉市与沢には、長島喜八という地主が親鸞聖人の教化を受けて授かったとされる二十二光阿弥陀如来画像(県指定文化財)を奉懸する喜八阿弥陀堂もあり、親鸞聖人の足跡が伝えられている。
唯信の足跡と信願寺の寺基
唯信は、貞永元(1232)年、親鸞聖人を招請して、幡谷の領内に一宇を建立した。これが信願寺の始まりとされる。
唯信は、親鸞聖人滅後、しばらく京都の墓所を守り、また各地に布教したといわれている。島根県浜田市の顕正寺も唯信が開基と伝えられている。
後世、信願寺の寺基は、享禄元(1528)年、久慈郡小瀬(常陸大宮市)に移り、さらに天正7(1579)年に水戸城下に移転。そして延宝9(1681)年に現在地に移っている。
寺宝には、鎌倉期作とされる銅造鍍金阿弥陀如来像(県指定文化財)があり、善光寺式阿弥陀如来像といわれる。その他、法然聖人像、法然聖人自筆の名号などがある。
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用
正式名称 | 徳池山蓮生院 信願寺 |
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住所 | 茨城県水戸市緑町1-2-1 |
アクセス | JR水戸駅から国道50号線を約2キロ直進。大工町2丁目交差点を左折。約200メートル。 |
駐車場 | 普通車10台 |
参拝 | 事前連絡が必要 |
お問合せ | TEL 029-221-5769 |