二十四輩第十 是信

本誓寺ほんせいじ(盛岡)

<t_021>本誓寺

盛岡の本誓寺は是信ぜしんの開基である。是信の俗姓は吉田信明といい、藤原氏一門の公家であったと伝えられる。養和元(1181)年京都に生まれ、大納言に任ぜられたが讒言にあい流罪の身となった。赦免となった後も、京には戻らず求道の志を固め、越後国府の親鸞聖人のもとに参じて師弟の契りを結んだと寺伝は伝えている。

奥州布教

建保3(1215)年、是信は稲田で聖人より奥州教化の使命を受けた。『遺徳法輪集いとくほうりんしゅう』には、是信が別離を悲しむと聖人も袖をぬらし、形見に聖人自ら像を彫刻して与え、是信に授けたと記されている。このとき聖人四十三歳、「のちの世の記念に残す面影は弥陀頼む身のたよりともなれ」と衆生済度のお心を詠まれたと伝えている。
奥州に赴いた是信は、和賀郡わがぐん(花巻市中笹間)にしばらく住み、その後、紫波しわ郡紫波町彦部石ヶ森に移り、本誓寺の寺基を定めた。ここを拠点に教化を拡げ、文永3(1266)年、八十六歳で往生の素懐を遂げた。

信明の家老

『遺徳法輪集』によれば、吉田信明(是信)が越前へ左遷されたときに随従した家老の千原長左衛門と橋本作内さないも、ともに稲田へ行き聖人の弟子となり、奥州へと赴いている。長左衛門は剃髪し信円と名のり、紫波郡彦部にて文永2(1265)年に往生を遂げた。本誓寺の向かいにある光照寺は信円の遺跡であるという。また橋本作内も彦部村にて命終え、その末裔が代々作内と名のり彦部村に住んでいることを記している。

南部公の招きで盛岡に移転

本誓寺は天正18(1590)年、南部藩の基礎作りをした南部信直なんぶのぶなおより、盛岡に寺地を与えられ現在地に移転した。
是信のもとの墳墓は、旧地の紫波郡紫波町の石森山にあり、今も香華こうげが絶えないという。また、寺基が盛岡に移転した後も、旧地には紫波本誓寺(岩手県紫波郡二日町字北七久保204)として法灯ほうとうが継承されている。

『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(本願寺出版社)より引用

正式名称 石森山重願院 本誓寺
住所 岩手県盛岡市名須川町3-16
アクセス JR山田線上盛岡駅から徒歩12分。
東北自動車道盛岡南ICを出て、県道36号線に入る。南IC入口交差点を左折後、国道4号線に入り、約8キロ先。
駐車場 普通車30台
参拝 事前連絡が必要
お問合せ TEL 019-652-1894

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