2025年 3月の法語・法話

True wisdom is itself Great Compassion.
上山 大峻
法話
上山大峻氏の言葉に、ある人のことが思い浮かびます。
ある問題で悩んでいたとき、訪ねた人のことです。駅に迎えに来てくれたその人の車に乗せてもらうなり、私は話しはじめていました。だいぶ経ってから名前を聞かれ、そこではじめて、ほぼ初対面であることに気づきました。
いま思うと、私の様子は異様であったかもしれません。言葉が止まりませんでした。ですが、その人は私の言葉をじっと聞いてくださいました。当時の私は「何もわからんくせに」「だまっとれ」「何を言うか」などの言葉を直接間接にたくさん投げかけられていましたから、私の言葉を否定せずに聞いてくださる人がいることに本当に驚きました。
親鸞聖人が大事にされた『観無量寿経』に登場する韋提希夫人は、息子である阿闍世に牢獄に幽閉され、釈尊に対して「我、昔何の罪ありてか、この悪子を生ずる」(私に何の罪があって、このような子を生んだのか)と苦悩を打ち明けます。このことはしばしば「釈尊の前で愚痴をさらけだした」と解釈されてきました。しかし私はそう思えません。韋提希はそれまで誰にも話を聞かれていなかったのではないでしょうか。
「この人は私の話を聞いてくれるかもしれない」と思えてはじめて、言葉を語ることができたという経験をした人は少なくないはずです。釈尊との対峙 を通して、韋提希は自分の声が誰からも聞かれてこなかったこと、そして自分もまた自身の声を軽視してきたことに気づいたのでしょう。そして韋提希が率直に自身の置かれている現実を語ったことによって、釈尊も「黙然として」(『観経疏』)その訴えを聞くことになったのだと思います。
韋提希は自分だけではなく、さらに未来を生きる他者も阿弥陀仏の教えに出で遇えるようにと願うに至りますが、それも自分の言葉を無視しなかった釈尊の存在あってのことだったと思うのです。
これまで多くの女性が自分の言葉を「愚痴」と名づけるのを耳にしてきました。「愚痴ばっかりね」「愚痴聞いてもらっちゃった」というふうに。何気ないことですが、彼女たちはなぜ「愚痴」という言葉を用いたのでしょう。仏教における愚痴とは、根本的な無知を指す言葉です。韋提希の言葉がこれまで「愚痴」と捉えられてきたように、彼女たちにも「愚痴」と名づけられ続け、生まれたそばか ら軽んじられる苦悩が無数にあったのだと思います。
冒頭のある人は「私の身を案じてくれる門徒さんにたすけてもらってきたの」と言われました。私もいま、女性が抱える苦悩を「愚痴」と決めつけない、互いに話を聞き合える人たちをたよって、たすけてもらっています。
韋提希の物語は、王舎城という古代インドの王宮で一人の王妃に起きたことが説かれたものですが、同時に韋提希という一人の女性の現実を目の当たりにし、安直に「愚痴」と決めつけない釈尊の物 語でもあります。つまり釈尊は韋提希の率直に自らを語る姿にはじめて、凡夫の現実の身にこそはたらく大悲のはたらきを見、このことを教えとして説いたのでしょう。上山氏の法語を通して、私はそのことにあらためて思いを致しています。
西寺 浄帆(さいじ しずほ)
1980 年生まれ。三重教区南勢1組本覺寺坊守
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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