2025年 2月の法語・法話

「名号」は 私たちの地獄に響く 阿弥陀のいのち

The Name, Namu Amida Butsu, is the working of Amida that reverberates in the hell of my own delusion.

高 史明

法話

 この法語は、高史明先生のおことばです。一読して、広さと明晰さと確かさを感じます。それはこのおことばの中に、私とは何か、私を救うものは何か、どのように私を救うのかという、人間の救いの根本となる真実が説かれているからではないかと思われます。

 私とは何か。「私たちの地獄に響く」とありますように、私という存在の一番奥深いところにあるものが「地獄」と言われています。

 源信の『往生要集』に八大地獄が説かれています。敵意をいだいて傷つけ合う等活地獄。焼けた斧で刻まれる黒縄地獄などが克明に説かれ、八番目がいちばん底の阿鼻地獄。その苦しみは第一から七までの苦しみを合わせた千倍もあるのだと。

 何を表しているのでしょうか。阿鼻地獄の苦しみは、賜たまわったご恩を忘れて生きる「五逆」や、仏の大慈悲に背そむき謗そしる「謗法」の者が受ける苦しみだと言われます。

 仏様は私たちを「五逆謗法」の者だと明かされました。これを生み出しているのが無む 明みょう煩ぼん悩のうです。高史明先生は、このおことばの出拠である『悲の海は深く』(東本願寺出版)の中で、仏を忘れ煩悩で自己中心的に生きることの誤りを、深い悲しみと熱い願いの中で指摘されています。

 この私たちを救おうと立ち上がられたのが仏様なのです。「阿弥陀のいのち」と表されています。無 量無辺の真実です。その真実は動かない真実ではなく、迷い苦しむ私たちに向けて動き出します。そして私たちにはたらきかけ、救いを成立させるのです。

 私は仏教に疑問を持っていましたが、学生時代に偶々の因縁で真宗の教えを聞くようになりました。お聞きしてよかったとつくづく思ったことは、阿弥陀は動かないものではなく、自ら私のために立ち上がり、歩み、はたらきかけてくださっていることをお聞きしたことです。自己中心的に生きる者としては考えられないことです。このことを知って仏教に対する私の気持ちはがらりと変わりました。

 阿弥陀は南無阿弥陀仏という名号となって私を喚ぶ。私のほうから仏に向けて「お願いします」ではなく、阿弥陀のほうが、これがあなたを救う私(阿弥陀)という真実のすべてなのだよ。それを「南無阿弥陀仏」で表しているのだよと喚びかけてくださるのです。

 地獄について親鸞聖人が説かれる教えの一つに阿闍世王の物語があります。阿闍世は父を殺してこれを正当化しますが、罪を自覚し始め苦しみます。大臣から釈尊の教えを聞くことを勧められ、途中乗って行く象から落ちそうになり、落ちれば地獄に堕ちるのではと恐れます。

 その阿闍世が釈尊に会い、丁寧な教えを聞いて信心を得た時、地獄を恐れるどころか、国王として迷惑をかけた国民を救うためには阿鼻地獄の中におかれてもかまわない旨を釈尊に申し上げるのです。

 南無阿弥陀仏は私たちの地獄に向けてはたらき、地獄を転回軸にして新たな真のいのちを生み出してくださるのです。

岡本 英夫(おかもと ひでお)

1947年生まれ。京都教区石東組德泉寺住職

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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