2023年 5月の法語・法話

南無阿弥陀仏とは、言葉となった仏なのです

Namo Amida Butsu is the salvific working of the Buddha manifesting itself as words.

安冨信哉

法話

「南無阿弥陀仏とは言葉となった仏なのです」

この言葉は、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。仏さまといえば、木像や絵像をイメージされる方も多いのではないでしょうか。そして仏さまを拝むときには、木像や絵像に向かって手を合わせます。そのときには、木像や絵像をご安置しているお寺の本堂や、家庭のお仏壇の前という場所が必要になります。

私たちが称える「南無阿弥陀仏」は言葉となった仏さまなのです。言葉となった仏さまは場所を選びません。どこにいても南無阿弥陀仏と称えれば、その大慈悲心にふれ、包まれることができます。

私が、この「南無阿弥陀仏とは言葉となった仏さまなのです」というフレーズを初めて聞いたのは、ずいぶん前のことです。

私たちの教団は、「形ばかりの僧侶、名ばかりの門徒」から真の僧侶、門徒となろうということを目標にした門信徒会運動。「部落差別をはじめとするあらゆる差別や、非戦平和など社会の問題を課題」として、御同朋の社会をめざす同朋運動。この両運動を「基幹運動」と称し推進してきました。現在はその運動の成果をふまえ「御同朋の社会をめざす運動(実践運動)」を推進しています。

その同朋運動の研修会において聞かせていただきました。
「南無阿弥陀仏という言葉になった仏さまから、言葉によるはたらき、つまり救いをいただいている。それなのに私たちは、言葉によって人を傷つけたり、差別していることがあるのではないか。これは言葉の仏さまを裏切っていることになります」
といった内容だったと記憶しています。

それを聞いて、私はお寺の封筒の前面に「ことばのひびきはこころのひびき」という言葉を印刷しました。また布教使資格をいただいて、ご門徒の前でご法話をするようになったとき、言葉は正確に丁寧に使い、聞いてくださる方を傷つけたり、悲しませることがないようにと誓ったことが思い出されます。しかしながら、ときとして本意が伝わらず、いやな思いをなさった方があったことも事実です。言葉の限界、表現の難しさを感じます。そのたびに後悔し反省しています。

私たち人間は、遠い昔に言葉を身につけ、言葉を駆使してお互いの意思を伝達し合い、コミュニケーションをはかってきました。私たちが社会生活を営んでいくためには言葉は必要不可欠なものです。言葉で相手を褒め、たたえることによってお互いが喜びを分かち合うこともあるでしょう。しかし、その言葉が通じ合わないことからお互いが苦しむことも事実です。

過去の身分制社会が作り出した部落差別を引きずり、賤称語を使って人として生きる権利を迫害したり、体の欠陥や容姿、仕事を揶揄した言い回しで悲しい思いをさせたりと、乱暴な言葉遣いによって人を苦しめていることがあります。同朋運動の研修会では、悲しい、苦しい思いをした方がたから直接話を聞かせていただき、学び、気付いたことがたくさんありました。

ここでもう一度冒頭の言葉をいただきますと、「南無阿弥陀仏」は、私たちの使っている言葉の持つ善悪や限界を超えた仏のはたらきです。常に称えましょう。称えることによって、私が私という自己自身に目覚めていくことができるのではないでしょうか。

中川 清昭(なかがわ しんしょう)

本願寺布教使、仏教婦人会連盟総会講師、福岡教区御笠組願應寺前住職

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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