2023年 4月の法語・法話
If I do not use the mirror of the Buddha Dharma to look at myself, I am unable to see who I really am.
二階堂行邦
法話
「鏡」と聞くと、昔よく読んだギリシャ神話の怪物、メドゥーサを思い出します。もともとは美しい乙女でしたが、ある出来事によって、戦いの女神アテナの怒りをかい、恐ろしい姿に変えられてしまいます。
それは、髪の部分が何十匹もの蛇となり、常に彼女の頭部でシュルシュルと舌を出しながらうごめいている怪物の姿です。そして彼女が恐れられたのは、その姿だけではありません。彼女の目を見たものは、恐怖で体が硬直し、石になってしまうのです。そんな怪物メドゥーサを退治したのは、ペルセウスです。彼は青銅の盾を鏡のように磨き上げ、彼女にその盾をかざしたのです。鏡の盾に映る自分の恐ろしい姿を見たメドゥーサは「ぎゃー!」という断末魔の叫びをあげ、彼女自身も石になってしまったというお話です。ギリシャ神話は登場人物(人物といっても、神や怪物になるわけですが)が限定されていて、どんな物語にも、知っている人物が登場します。お経でも同じ菩薩さまやお弟子さんたちが登場しますが、これらは私にとって物語を楽しむひとつのポイントであったりします。
さて、この法語「仏法の鏡の前に立たないと 自分が自分になれない」ですが、「仏法の鏡」とはどういうものでしょうか。鏡は光の反射によって、自分の姿を映すものです。仏法の鏡ですから、それは仏さまの光によって私の内面が隅々まで照らし出されるということです。ただ、それを覗き込んでしまったら、私もまたメドゥーサのように自分の恐ろしい姿に「ぎゃー!」と叫んでしまうことになるでしょう。だから、鏡の前に立つことすら怖気づいている自分がいます。
温暖化を止めなくては、と思いながら車に乗る私。命をいただいている、といいながら食べ物を廃棄する私。難民の人たちを受け入れなくては、と考えても自宅の余った部屋を提供できない私。施設の母親が寂しいだろう、と思いながら面会に行かない私。生き方には様々な選択肢がある、といいながら自分の子どもにはそれを許さない私。隠しているつもりの恨みや妬みの心も仏法の鏡にはくっきりと映し出されるでしょう。とにかく私は自己中心で成り立っているはずです。そんな自分をありありと見つめるのは怖いのです。
親鸞聖人がほんとうにすごいお方だと思った和讃さんを紹介したいと思います。最晩年に近い、88歳に書かれた「愚禿悲歎述懐和讃」の一首です。
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる
(『真宗聖典』五〇八頁)
「わたしは悪い本性を断ち切ることが未だできません。その心は蛇やさそりのように恐ろしいのです。良い行いをしているようでも、そこには必ず自分の見栄やおごりが含まれているので、それはにせものの行いというしかないでしょう」と詠うたわれています。
赤裸々に吐露された宗祖のこの告白は、仏法の鏡の前に生涯立ち続けたお姿を想像させます。阿弥陀様はそんな衆生をこそ救ってくださるのに、鏡の前で目を開けることができない私は、まだまだ本当の自分に出遇えていないということになるのでしょう。だからこそ仏法の鏡の前に立てと、阿弥陀様はすすめてくださるのです。
上本 賀代子(うえもと かよこ)
1961年生まれ。大阪教区第20組安樂寺前坊守
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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