2023年 6月の法語・法話
Entrusting that arises within me is the salvific working, that is, the life of the Tathagata.
小山法城
法話
ここに挙げた法語は小山法城氏の『我等の歩み』(興教書院)に収められた、感銘深いエッセイの題名から取られたものです。「お母さん‼ なんと懐かしい、力強き声でせう‼ 世の中に尊き有り難い、温かき、聖き者、それは母であります」と始まるこのエッセイでは、阿弥陀如来を母に、衆生を子になぞらえ、子が「母の慈愛の懐に抱かれている」ように、衆生は如来の大いなるいのちのなかに包まれて生きていることが力強く語られています。さらに「母の生命全体は子の生命であり、子はこの母の生命全体を受けて、その生命としている」として、母(如来)と子(衆生)のいのちは一体であり、衆生は如来のいのちによって生かされているとも示されています。そして如来と衆生を繋ぐのは、如来によって回施された本願の三信( 至心・信楽・欲生)であり、この信心こそ「如来の生命であり、この生命は一切の衆生をひとしく救ふ無碍の大道であります。母は一切のものに、まことの生命を与え、一切のものを救ふ聖であります」と締めくくられています。わずか数ページの短い文章であるにもかかわらず、このエッセイでは如来と衆生の関係と、救いがどのようにして成就するかが、わかりやすい表現をもって端的に説かれています。
近代の真宗教学では、浄土や阿弥陀如来を遥か西に実在する世界や超越的な救世主と受けとめることから脱して、浄土や如来を人間の内なる出来事―いわば主体的事実―として再解釈されてきました。冒頭に挙げた小山氏の言葉も、このような視点から展開されています。ここで小山氏は、我々衆生のいのちは限りあるものであるけれども、その限りあるいのちは如来の無限のいのちに支えられていると語っています。衆生の有限のいのちの根底には「無量寿」という如来の無限のいのちが流れているというのです。そして、そのことに気づくとき、我々は如来のいのちである信心を獲得し、無限のいのちに参入することができるのです。そしてさらに重要なことは、このように獲得した信心以外には、如来はどこにも存在しないということです。私たちの心の根底に流れるいのちこそが如来なのです。このような深い思索が、この「信は如来の生命なり」という法語に含まれているのです。
この数百年のあいだ、科学の発展によって、人類の生活は以前とは比べようがないほど豊かで快適になり、人間の平均寿命も飛躍的に伸びました。しかし、科学の発展によって、私たちの持ついのちの感覚はやせ細り、多くの人々が自己の奥底に流れている無限のいのちを実感できなくなっていることも事実です。そのような状況のなか、どのようにしてこの無限のいのちの感覚を取りもどすことができるのでしょうか。これこそ現代に生きる私たちに突き付けられた、最も重要な課題であるといえるでしょう。
ロバート F. ローズ
1953年生まれ。大谷大学名誉教授
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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