2023年 11月の法語・法話

生の依りどころを与え、死の帰するところを与えていくのが南無阿弥陀仏

Namo Amida Butsu is the authentification of receiving life in this world and going to the Pure Land after death.

金子大榮

法話

本来宗教とは、私たちに正しい生き方を指し示し、正しい死の受容を明らかにするよう促すものだと思います。

ところが現代社会において、宗教は自分の欲望を満足させるための祈りであったり、自身の不安や困った状況を自分以外の何かに責任転嫁して、それらを排除していこうとするための手段となっているように思われます。

また仏教も、生き方を問うことよりも死後に重きがおかれ、教えの内容よりも儀式や勤行などの形に偏った、本来とは少しちがう伝承になっているように感じます。それは当然、伝える側の責任が大きいことは言うまでもありません。今こそ仏教、とりわけ浄土真宗が何を伝えてきたのかを確認する必要があります。

ご門主は、伝灯奉告法要初日(二〇一六年十月一日)に、「念仏者の生き方」と題したご親教で、親鸞聖人がご門弟に宛てられたお手紙を現代語で紹介され、私たちの生き方について、
「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のご本願のお心をお聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。たいへん重いご教示です。

今日、世界にはテロや武力紛争、経済格差、地球温暖化、核物質の拡散、差別を含む人権の抑圧など、世界規模での人類の生存に関わる困難な問題が山積していますが、これらの原因の根本は、ありのままの真実に背いて生きる私たちの無明煩悩にあります。もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執われた煩悩具足の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。
と、仏法を依りどころとして生きる大切さを述べられました。

私たちは、阿弥陀さまの「すべての生きとし生けるものを救う」というご本願のお心にふれることによって、むさぼり、いかり、おろかさという煩悩に振り回され、自分や自分に縁のある人の幸福や利益のことしか考えられず、自己中心の生き方しかしてこなかった、恥ずかしい自分であることに気がつくのです。

そこから、少しずつ自分中心から仏さまの教えを中心に生きようとする私に変えられていきます。阿弥陀さまの「すべての生きとし生けるものを救う」という願いは、私の生きる依りどころとなるのです。

「すべての生きとし生けるものを救う」というお心は、言い換えれば「四海のうちみな兄弟」(曇鸞大師『往生論註』)ということです。そこには、敵味方という対立もなければ、怨み憎むというようなことも、自分の気に入らない人びとを差別し排除することもない。すべてはみな、等しく尊いいのち、阿弥陀さまの浄土へと迎え取られていくいのちとして、死の帰するところが与えられます。

阿弥陀さまのお心を生きる依りどころとして、本当の人となり、そして、やがていのち終えるときには、お浄土へ往生し仏とならせていただく道があります。その道を阿弥陀さまは伝えようとなさったのです。

中川 清昭(なかがわ しんしょう)

本願寺布教使、仏教婦人会連盟総会講師、福岡教区御笠組願應寺前住職

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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