2023年 10月の法語・法話

念仏というのは私に現れた仏の行い

The Nembutsu is the manifestation of the Buddha's salvific working for my sake.

坂東性純

法話

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要のテーマに「今、いのちがあなたを生きている」とありました。当初、私はテーマに対して何故「今、あなたはそのいのちを生きている」と表現されなかったのか疑問を感じました。

一般的にはいのちの主体は私であり、何事も、「私が」「私は」と受け止められています。しかし、御遠忌テーマは、私ではなく、いのちが主体となって表現されています。御遠忌テーマは、私たちの常識をひっくり返し、改めていのちの真相をとらえなおそうとしたものと思われます。いのちの体は私からではなく、南無阿弥陀仏とよびかけられた如来によって表現されるものでした。私のいのちは私の所有ではなく、阿弥陀(無量寿)なるいのちよりお預かりしているいのちでした。現代ではそうした無量のいのちが見失われ、また、軽んじられているのではないでしょうか。

『蓮如上人御一代記聞書』に、
「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」(『真宗聖典』八八三頁)
とあります。

仏法とはお念仏の生活であります。また、世間とは日常の生活であります。ともすると、私たちは仏法と世間を分類し、分けて考えてしまいます。仏法は仏法、世間は世間と。そのような中で蓮如上人はお念仏をあるじとして、日常のできごとは客人として重ねあわせて受けとめ、仏法を生活の依り処として生きよ、とお示しくださいました。

私たちは日常の生活に重点をおいております。その傍らにお念仏を称え、世間のできごとに流され、苦しみや悩みを抱えて生きています。そのため、世間では念仏を称えるかどうかは私の判断です。

蓮如上人は生活の主体はお念仏であり、世間の分別は客体であると教えておられます。したがって、私たちは仏法と世間を分けて考えがちですが、仏法なくして世間もなく、世間なくして仏法もありません。世間の営みを世間たらしめる実相こそが仏法であります。

冒頭に、こちらの法語が挙げられています。
念仏というのは 私に現れた 仏の行い
お念仏は私の口を通して南無阿弥陀仏と称えるのですが、決して私の努力で修する行ではありません。朝から晩まで私の心は煩悩によって迷いつづけています。その心に本願のほうから届けられるのが称名念仏であります。

法然上人のお弟子に耳四郎という人がいました。お弟子になる前は、悪の限りを尽くし、人から恐れられていました。何か物がなくなると、常に耳四郎は疑われました。その時、耳四郎は当然のことと受けとめ笑っていたそうです。

しかし、ある時、耳四郎がお念仏を称えていた時、ある者が、「耳四郎、お前のように悪いことをした者は、そのお念仏ではよもや浄土へはゆけまい」と詰(なじ)りました。それを聞いた耳四郎は、「ひとたび、私の口に出てくださったお念仏は、はや、私のものではない。如来さまから戴いたお念仏である」と、平然と答えました。

すなわち、念仏とは私の口に発せられる称名と同時に、如来より願われた聞名の行そのものであると知らされています。

伊奈 祐諦(いな ゆうたい)

1946年生まれ。岡崎教区第8 組安樂寺前住職

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

「今月の法語」は、真宗教団連合発行の『法語カレンダー』に掲載の月々の法語をご紹介しています。
『法語カレンダー』は各宗派にてお求めいただけますので、お問合せください。