2023年 7月の法語・法話
When I encounter something that is true and correct, I come to know that I am not always right.
利井明弘
法話
先日、住職である長男と一杯飲んでいるときのことです。話が得度習礼(僧侶になるための得度式を受けるにあたり、本願寺西山別院において行う十日間の合宿研修)のことになり、彼曰く「本願寺で『正信偈』の唱え方を習ったら、お父さんの唱え癖がよくわかった」と笑います。そうです、私もずいぶん前に本願寺で唱え方を習ったのですが、長年自分だけで唱えていると、自分流の癖がついてしまっていることに気が付かずにいたのです。ときにはCDなどでお手本を聞いて自分の唱え癖を確認しないといけないなぁ、と反省しきりです。(中略)
私は生まれてから今日まで、両親はじめ、近隣の方がた、学校の先生、一緒に遊んだ友だち、僧侶としてお付き合いのある先輩や友人などの影響を受けながら、またテレビ、ラジオ、新聞などの、多くのメディアから流される情報に囲まれて生きてきました。その中で、自分なりの価値観や社会の常識などを自分の「ものさし」として身に付け、そして自分の「ものさし」を間違いのないもの、正しいものと思い込んでいます。しかも、本当に正しいのかということを点検することもほとんどありません。
「正信偈」には、自分のものさしほど正しいものはないと思い込むことを憍慢(おごり・たかぶり)、その心で人や社会の出来事を判断していくことを邪見(よこしま・はからい)と示されています。
この憍慢と邪見でつくられた「ものさし」は、人と接するときや社会の出来事を見るときに活躍します。
人と接するときには、その人は自分にとって都合のいい人か、よくない人か、好きか嫌いか、付き合って得か損かをはかります。社会の出来事も同様に自分にとって好ましいのか、そうでないかをはかります。
そのうえ、このものさしの目盛りは、その幅がコロコロ変わるのです。自分にとって都合のいい人を見るときには寛大な目盛りとなり、少々のことは許すことができます。反対に都合の良くない人をはかるときには厳しい目盛りとなり、ちょっとしたことも許すことができずに、叱責するということになります。本来「ものさし」の目盛りの幅はどのようなときにでも一定でなければ、「ものさし」としての役割を果たすことはできないのですが......。
常にお聴聞を重ね、阿弥陀さまの大慈悲心に学ぶということは、阿弥陀さまの「ものさし」に対して自分の「ものさし」がうそかまことかと問うことであり、つまりは正しくない自分を知らされることでもあります。
中川 清昭(なかがわ しんしょう)
本願寺布教使、仏教婦人会連盟総会講師、福岡教区御笠組願應寺前住職
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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