2023年 8月の法語・法話

われもたすかり、人もたすかるというのが仏教の教え

Through the Buddha's teaching, everyone is saved—not only myself, but others as well.

曽我量深

法話

「情けは人の為ならず」ということわざがあります。〝人に情けをかけるという事は、情けがその人だけにとどまらず、回りまわって自分に返ってくるから、人にやさしくしましょう〟という意味だそうです。私にも、そのような考えを持った友人がいます。仕事や家庭や趣味などで良いことがあると、他の人に「幸せのおすそ分け」をするのだそうです。「おすそ分け」ですから、大したものではなく、街頭募金を見かけたら小銭を寄付したり、車を運転しているときは道を譲ったりと些細な事で、簡単に言えば、ほんの少しだけ人にやさしくするのだそうです。

そんな彼を真似て、私も初孫が産まれたとき、ある国際ボランティア団体に毎月寄付をするようになりました。私の孫は、戦禍に見舞われることなく、健康状態もよく、今のところ幸せに暮らしています。しかし、外国では、戦禍に見舞われ、栄養失調に苦しんでいる子どもたちがたくさんいます。そういった子どもたちにほんの少しだけやさしくしているわけです。世界中の人々がほんの少しだけやさしくなれば、世の中はもっと良くなるでしょう。

けれども、人がほんの少しだけやさしくなって世の中が良くなったとしても、私たちは本当の意味で救われたり、助かったりするのでしょうか。そもそも、私たちの「救われる」とか「助かる」という事と、仏様の「救い」は同じものなのでしょうか。

曽我先生が言われた「われもたすかり 人もたすかる」という言葉は、「私が助かったから、感謝の気持ちを持って、私の力で他の人も助けてあげよう」というものではありません。よくよく考えると、ほんの少しやさしくなっても、私は他の人を助けるほど偉くもなければ、そんな力はありません。むしろ、仏様の教えを聞けば聞くほど、ろくでもない私に気づきます。調子のいいときは、人にやさしくもっともらしいことを話しますが、いざ何かあれば、人を恨み、妬み、愚痴る。それが私です。そんな私が、他の人を救えるでしょうか。

私も仏様のおかげで助かったのだから、他の人もまた仏様のおかげで助かるに違いない。それこそが仏教の教えである。曽我先生はそう言われているのではないでしょうか。

その事に気づいたとき、私たちは、何かしてもらったから何かをするという条件付きの世界から、何も条件の付かない世界に気づくのではないでしょうか。もちろん、人にやさしくすることは、決して悪いことではなくて、良いことです。しかし、私たちのやさしさと仏様のやさしさとは、質も大きさも違うのでしょう。

私は、毎日のようにお念仏を称えております。お念仏を称えたとき、「私は救われている」とか「わが身が助かっている」という実感はあまりありません。それはたぶん、仏様の「救い」ではなく、自分の「救われる」という物差しで手を合わせ、日々生きているからではないかと思います。教えに我が身が照らされて、私の姿に気づいたとき、仏様の「救い」に手を合わす日々を送れるのではないでしょうか。

磯野 淳(いその じゅん)

1962年生まれ。京都教区山城第1 組新道寺住職

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

「今月の法語」は、真宗教団連合発行の『法語カレンダー』に掲載の月々の法語をご紹介しています。
『法語カレンダー』は各宗派にてお求めいただけますので、お問合せください。