2022年 9月の法語・法話
I am reminded of my unscrupulousness whenever I worship Amida with my hands together in gasshō.
波北彰真
法話
昔話に登場する鬼にはツノがある。傍若無人のふるまいで村人を困らせ、やがては改心するというのが大抵の筋立てだ。鬼のツノは見えるけれど、人間の場合はどうだろう。
いつもは穏やかな人でも、怒るとツノが生える。囲炉裏の灰の中に埋めてある熾(おき)のように火種は消えずに、いつでも燃えるようにスタンバイしている。私の中にある見えない熾がツノとなってメラメラと燃え上がる。だから「煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)」というのだと教えていただいたことがある。
「見えない」ことで思い出す本に『ひかりごけ』がある。三十年以上前に読んだ本だが折に触れては思い出す。難破した船から命からがら無人島にたどり着いた船員たち。わずかな食料も底をつき、死んだ同僚の肉を食うか食わないかという選択肢に迫られる。最終的に生き延びたのは船長ただ一人。その事実が明るみになり裁判が行われる。裁判長や傍聴する人たちは船長を責める。船長は自らの罪を認め言う。「人肉を食べた人の首にはひかりの輪ができるという言い伝えがあります。私の首をしっかり見てください」と。しかし、船長の首にはひかりの輪はなく、その他の人たち全員の首にひかりの輪があったというお話だ。
私がこの本を通して考えさせられたのは人が人を「裁(さば)く」ということだった。裁判長ではあるまいし、私は今まで人を裁いたことはないと思っていたが、よくよく考えてみると自分にとって都合の「いい人」「悪い人」というように他人を裁いてきた苦い経験が知らされてくる。意見の合う人とは仲良くし、合わない人は遠ざける。自分の正しさを疑わずよしあしを区別することを仏教では分別という。それは排除や差別となって周りの人を切り捨てていく。人だけではない。たとえば食事を手作りするのは、勉強ができるのは「いいこと」だという考えは、そうしない(できない)のは「悪いこと」とされてしまう。「我執」という名のツノがニョキニョキと頭皮を突き破って生えてくる。しかも、そのツノは自分には見えない。
そんな私たちに阿弥陀さまは、「我が身のツノに気づけよ」と呼びかけている。私たちがその願いにふれるのは阿弥陀さまの名前を呼ぶナムアミダブツの声となった時。でも気づいたからといって、ツノが無くなるわけではない。「ツノがあることを自覚できた」というツノがまた生えてくる。ツノまでも自慢の種にする私たちのずるさを「邪見?慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」と親鸞聖人は「正信偈(しょうしんげ)」に書いてくださっている。「ただ念仏せよ」というシンプルな教えを素直に受け止められないのは、自分でも気づかない程の底知れぬ闇ではないだろうか。
藤場 芳子(ふじば よしこ)
1954年生まれ。金沢教区常讃寺副住職。
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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