2022年 8月の法語・法話

我が身を深く悲しむ心に仏法のことばが響く

The words of the Buddha’s teaching resonate in the mind of those persons who deeply lament over themselves.

宮城 顗

法話

 私たちは、無意識に自分を飾りながら生きています。人に良く見られたいという心のはたらきです。

同行のまへにてはよろこぶものなり、これ名聞なり。信のうへは一人居てよろこぶ法なり。
(『蓮如上人御一代記聞書』『註釈版聖典』1280頁)

 言葉を補って、わかりやすく解釈してみましょう。
私たちは、心からよろこびを感じていなくても、同行の前ではよろこんでいるようなふりをします。そこには、名誉心、人から良く見られたいという思いがありませんか。一人でいる時、その人の信心の姿が明らかになります。他力というのは、一人でよろこぶ教えなのです。

 何の本か忘れましたが、緊迫した戦場で、部下が上官の部屋を訪ねる場面がありました。上官は机に向かって、夢中で虫と遊んでいます。部下が入ってきたのに気づくと、「何だつまらない」という素振りで虫を振り払います。とてもリアルな場面で、印象に残っていました。おそらくソルジェニチンだったと思います。

 人は誰にも見られていないと、安心します。そして本当の姿が現れます。緊張を強いられる戦場。上官という立場。そこで彼は、自分の役割を演じなければなりません。けれど外に見えているのが、彼のすべてではなかったのです。

 もし心の中を見られる眼鏡があったら、私たちは一日も生きていけないでしょう。何より私が、私の心を知っているからです。むさぼり、いかり、おろかさ、これらのはたらきが絡み合って、さまざまな情感が起こりますが、その中でもっとも醜いものの一つが、妬みだと思います。私たちは決して、人の成功をよろこぶことができないのです。

 お勤めもする、お聴聞もする、勉強もする。家に帰って一人になった時、お念仏が出てくるかどうか。自分が一番よくわかります。「構えていない時のお念仏。それが本当のお念仏ですよ」と蓮如上人は言われるのです。法然聖人にも、同様の教化は多くあります。

 むさぼり。いかり。おろかさ。本当にそんな自分であったと気づくほど、つらいことはありません。その時、「そのようなあなたがめあてだったのです」と、本願のことばが響き渡るのです。

山本 攝叡(やまもと せつえい)

浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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