2022年 7月の法語・法話

この心も身も全部 如来からのいただきもの

The person I am now is thanks to Amida’s working.

大峯顯

法話

 大峯先生はこの言葉のあとに、こう書かれています。

この命は私の中で動いているけれども、私の所有物ではないんです。たまわった命です。誰のものでもないというのは、如来のものということです。ただの物質という意味ではなくて、人間の力ではない不思議なものからいただいた不思議な力です。
(『本願海流』本願寺出版社)

 この文章を読むと、私は自分の子育てについて言い当てられたような、胸をつかれる思いがします。

 今から二十年前に娘を授かり、私は母となりました。それまで何者でもなかった私が、「お母さん」という確かな役割を得ることとなったその時の喜びと安堵は、計り知れないものがありました。その後は二年おきに三人の男の子を出産しましたが、子育ては私の想像をはるかに超える大変さで、周囲の助けを得て、何とか子どもたちの世話をする毎日でした。慌ただしい一日が終わり、子どもがようやく寝ついた頃、その静けさの中で普段の自分の言動の至らなさがよみがえり、思い描いていた優しいお母さん像とはあまりに程遠い姿に、思わず涙がこぼれました。

 四人の子どもたちの中でも、特に私を悩ませていたのは長男でした。家族を困惑させる言動ばかりが目立ち、私はたびたび怒りのボルテージを最大にして手をあげることもありました。怒ってばかりの日々に「もうこの子とは一緒に暮らせない」とまで思い詰めるほどでした。

 なぜ、私は子どもたちにこれほどまでに翻弄(ほんろう)されていたのでしょう。今になって考えると、それは子どもたちを自分の思い通りにしようとしていたからだと思います。私の体を通して生まれてきたことから、自分の身の一部のような感覚を持ち、意のままにしたいという気持ちが常に根底にありました。だからこそ全然思い通りにならない日常に戸惑い、苛立ちを募らせていたのでしょう。それは子どもたちを「私の所有物」としていたということです。

 長女が生まれた時、今は亡き父から、カリール・ジブランの「子どもについて」という詩を贈られました。その詩の中に、

あなたは弓です。その弓から、子は生きた矢となって放たれて行きます。
(佐久間彪訳『預言者』至光社)

という一節があります。最近になってようやくこの詩の意味を実感するようになりました。この世に生まれたということは、すでに親から解き放たれているということなのでしょう。

 あれほど大人の手を焼かせていた長男は、中学生になる前には見違えるほど落ち着いて生活をするようになりました。子どもたちは皆、それぞれが違った形で人生を歩んでいきます。強くしならせた弓から放たれた矢は、見事なほど真っ直ぐ、遠くに飛んでいくようです。

和田 淑子(わだ よしこ)

1975年生まれ。岐阜高山教区照明寺坊守。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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