2022年 6月の法語・法話
We live taking what we have been given for granted but continue to express dissatisfaction.
松扉哲雄
法話
もう少し、「捨てる」ことを考えてみましょう。空也上人が言われたように、仏道は「捨てる」ことにつきるからです。
5月のお話で、私たちは「求めながら」生きていると言いました。これは仏教でいう「集諦」を、わかりやすく日本語で表してみたのです。集諦は苦の原因として説かれています。ここで求めるというのは、「あれが欲しい」「これが食べたい」などといったものに限りません。「歳をとりたくない(老)」。「健康が欲しい(病)」。「死にたくない(死)」。これが人生の根本苦と呼ばれるのは、私の心がそれを受け入れられないことを表していたのです。
『事件現場清掃人が行く』(高江洲敦 著/幻冬舎アウトロー文庫)という本には、さまざまなことを教えられました。テレビでいろいろな職業、それも特殊な職業の紹介をしている番組がありました。そこでこの人のことを知ったのです。この方の仕事は、何らかの事情で孤独死をされていた部屋の清掃をすることです。初めはほとんど偶然から、頼まれた部屋の清掃を引き受けられたようです。そのうち次第に依頼が増え、とうとうそれがこの方の職業になってしまいました。
いろいろな事件現場が描かれています。もっとも極端な例は、たまたま新築の密閉性が高いマンションであったため、半年後に発見された例などもあったそうです。この方のプロ意識は、全く痕跡をとどめないように清掃するというところにあります。そのため化学の勉強までして、特殊な薬品やそのノウハウを身につけられています。いい加減な業者だと、冬の間はわからなくても、暖かくなると痕跡が出てくることがあるといいます。
事件現場は現代社会の縮図です。そしていろいろな現場の姿を読ませてもらうと、死は単なる終わりでなく、死の姿そのものも、人生の縮図であることがよくわかります。文字通り、生も死もその人の人生なのです。死は単なる終着点ではなく、いまどのような人生を歩んでいるかということと、密接に関わっていたのです。
この本で一番教えられたのは、我々が普通に使っている「孤独死」という言葉です。現代のように一人住まいが多いと、人知れず亡くなることも多くなります。それは孤独死ではないと、この方は言われます。本当の孤独死は、「亡くなった方を悼む人が一人もいない。それを孤独死だと考えます」とありました。深い言葉です。
「あたりまえ」という言葉は、『広辞苑』では、「ごく普通であること」と定義されています。眠りについて、目が覚めて、また一日が始まる。私たちはそれを「あたりまえ」にしています。けれども、79億の人口に一人も同じ顔がないのと同じく、この世界に私という人間は一人しかいない。そしてその私に、今日という日は一日しかない。これほど不思議なことがあるでしょうか。
山本 攝叡(やまもと せつえい)
浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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