2022年 5月の法語・法話
Some people count what they have lost, while others appreciate what they have been given.
豊島学由
法話
全国で新型コロナウイルスが発生した昨年来、私たちの日常は一変し、これまで当たり前すぎて気にも留めなかった生活の一つひとつが制限されるようになりました。必須となったマスクの着用は人の表情をわかりにくくし、フィジカルディスタンスの確保は人が集まり言葉を交わすことを困難にさせ、またリモート技術などの導入は一定の利便性が認められる一方で、他者と直に顔を合わせる機会を著しく減少させました。
自坊でも三月以降、予定していた諸行事の中止を余儀なくされ、本堂に人が集まることがなくなりました。感染状況がやや落ち着き、行事を再開できたのは九月のことです。感染防止に留意するとはいえ、お斎(とき)は中止、法要や法話は短縮せざるをえない中、お参りする人はいるだろうかと案じていましたが、予想に反し多くの門徒さんがお参りされました。マスク越しで控えめながらも、久しぶりにお念仏と正信偈(しょうしんげ)の声が本堂内に響きました。
行事の後、ある門徒さんと談笑しました。その方は夫を亡くしてから一人暮らしで、コロナ発生以後はあらゆる集まりが全て中止になり、近くの知り合いを訪ねるのも人目を憚(はばか)って自粛していたため、人と言葉を交わすことがほとんどない生活をしていたとのことでした。その方から「お寺にお参りするのは今まであたりまえだったけど、今日は久々にみんなの顔が見られて本当にうれしかった。これからもお参りの場を開いてほしい」と言われ、はっとしました。私は「これまでどおり」ということばかりに気を取られていました。一方で門徒さんは、どのような形態になったとしても、ともにお参りする人たちと出会うことのできる「場」を求めていたのです。
この方だけでなく、お参りされた方の多くもまた、同じ思いで来られたのではないでしょうか。そこで語られるのは必ずしも念仏や信心の話ではないかもしれません。しかし、再会できた喜びをはじめ、コロナ発生以降の寂しさや不安を互いに吐露(とろ)し分かちあう門徒さんたちの姿に、あたりまえに人が集まっていた時には気づきもしなかった、お寺という「場」が担っていた役割を教えられたのでした。
失ったものを数える人あり 与えられたものに感謝する人あり
一見、対比表現のように見えるこの二つの姿は、必ずしも相反するあり方ではないのでしょう。かけがえのないものを失い、もう元には戻らないと知りながらも忘れられず、追い求めずにおられない。そのような悲しみや苦悩をとおしてこそ、すでに「与えられ」ていた「もの」があったことに気づかされ「感謝する」という心が生じることがあるのです。この未曾有(みぞう)の事態のただ中で、お寺にも容易に集うことができない状況が再び訪れるかもしれません。しかし、このような中だからこそ、ただ場を開くこと、その開かれた場にただ集うことの「有難さ」を感じるのです。
三木 朋哉(みき ともや)
1978年生まれ。岐阜高山教区淨福寺住職。
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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