2022年 4月の法語・法話
Amida’s Original Vow always envelops us like air and ceaselessly flows like spring water.
平野修
法話
東風。 「こち」という読みは知っていましたが、なぜ「こち」というのかわかりません。風のことを少し調べようと思い、インターネットを見てみました。
オドロキマシタ。「風、異名」と検索してみると、なんと無数といっていいほど、風の名前が出てきます。海や山などの自然につつまれた日本は、これだけ多く風の名前を使い分け、生活を営んできたのでした。
鳰の浦風という言葉は知っていました。母親が滋賀県の生まれで、子どものころから耳にしていたのです。「にお」というのは、かいつぶりという鳥の古名だそうで、それが生息する琵琶湖に吹く風をいう言葉です。琵琶湖のことを鳰の湖と呼ぶこともあります。 このように風には、地域だけに通じる名前まであるのでした。
今月のことばにある「風のように身に添い」といわれている風は、たとえば春のやわらかなそよ風でしょうか。目には見えなくても、変わることなく私をつつんであるはたらきを、いうのでしょう。
地下水脈も目には見えません。見えなくても、途切れることなく流れ続けています。
以前住んでいた家には、井戸がありました。水道も通っていましたが、夏冷たく、冬温かい井戸水は重宝しました。水道もあまり整備されていなかったころは、よく断水がありました。そんな時は、近所の人が水をもらいにこられます。私の家は、ほとんどを井戸水でまかなっていたのです。
夕方になると、井戸水を汲んで風呂に入れるのが、子どもの仕事でした。五右衛門風呂をバケツで満たすのは、ちょっとした重労働です。ザルに紐をつけ、スイカを乗せて井戸に下ろします。よく冷えたスイカをいただくのが、夏の楽しみの一つです。
このように井戸は、私たちの生活全般を支えてくれていたのでした。 昭和の何年頃だったか、家からかなり離れた所ですが、立て続けに大きな工場が建ちました。直接の原因かどうかわかりませんが、そのころ、井戸水が出なくなってしまったのです。地下水脈が変わったのでしょう。不便なので、職人さんにお願いして、深く掘り直してもらったことを覚えています。生活の支えとしての井戸ほど、ありがたいものはなかったのです。
風も地下水も、その恩恵を受けながら、直接目にすることはできません。如来の本願も、目には見えないけれど、やはり私たちの人生を、豊かに支えてくださってあったのです。
「こち」の語源はいくつか説があって、一定していないようです。
山本 攝叡(やまもと せつえい)
浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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