2022年 3月の法語・法話

われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよびごえ

Although it is me that utters and hears the phrase “Namo Amida Butsu,” actually it is the call of my parent, Amida, promising to guide me to the Pure Land.

原口針水

法話

 ラムネ瓶の栓をするための玉を何というかご存知ですか? 一般的にあの玉は「ビー玉」と呼ばれますが、正式な名称を「A玉」というそうです。

 ラムネは炭酸水ですから、しっかりと栓をする必要があります。そのため栓の役割をするガラス玉は完全な円形で少しでも傷があってはなりません。厳しい規格審査に合格したものがラムネ玉として認められた〝A玉〟になれます。そして規格審査の〝A〟に不合格だった玉は〝B〟、つまり〝B玉〟と呼ばれています。B玉は規格に不合格ではあるけれど、せっかく作ったものを捨てるのはもったいないので、ラムネを買ってくれる子どもにあげようと駄菓子屋に置かれるようになりました。やがてB玉は「ビー玉」と呼ばれるようになり、いまも広く親しまれています。

 皆さんはA玉ですか? それともB玉ですか? 自分を振り返った時、A玉のように挫折なく生きてこられたと思える人は少ないでしょう。誰しもB玉のように、世間の価値観から落ちこぼれて、挫折して唇を噛みながら悔し涙を流した経験が、大なり小なりあるのではないでしょうか?

 世間には人間をはかる価値観が溢(あふ)れています。有用や有益で人間がランク付けされ、間に合う人間には居場所が与えられますが、世間の価値観からふるい落とされた人間の居場所は、小さく狭くなって、どこにもなくなってしまいます。
 そういった世間を生きていると、知らず知らずに世間の価値観は自分の価値観になります。A玉のように時流に乗りうまく生きられているときは何も問題を感じませんが、B玉のように世間から価値のない者と見捨てられたとき、自分で自分をはかり、「こんな自分でなかったら」と自分で自分を見捨ててしまいます。そして、自分を価値のないものと認めたくないから、自分より下の人間を探すことで自尊心を保とうとする。生きるということの意味を、世間の価値観だけで見出そうとすると、劣等感、そして優越感から解放されることはないのです。

 仏の教えは世間を「覆真(ふしん)」と言い当ててくださいます。世間の価値観は、真実・本当のことを覆い隠しているから、世間に生きる我々は本当ではないことを本当のように勘違いし、迷い、苦悩しているのです。

 南無阿弥陀仏は、私が称え私が聞く私の声です。しかし、私が称え私が聞いている南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の「つれてゆくぞ」という呼び声であると原口針水先生は言われます。世間の価値観が覆い隠し見えなくしていた真実を、我々が生まれるべき真実の国として教え、この国に生まれなさい、連れて行くぞと呼んでくださっているというのです。そして、その呼び声は、我々が生きる世間は真実ではないぞ、我々が体質にまでしている世間の価値観は真実ではないぞ、と言い当て、教えてくださっているのでしょう。南無阿弥陀仏は、我々の体質にまでなっている人間を見捨てるような世間の価値観が崩れる響きなのです。

 B玉は審査に合格できなかった規格外の落ちこぼれかもしれません。しかしビー玉は、えらばれ、はかられ、見捨てられるという価値観ではないところで、今でも居場所があります。無条件にそのままを受け入れられているそのすがたは、濁った眼で覆い隠されて見えないけれど、我々が深いところで求めている真実・本当のことを教えてくれているように思います。

谷 大輔(たに だいすけ)

1967年生まれ。京都教区良覺寺住職。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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