2022年 2月の法語・法話
I took the wrong path but came to realize that this, too, is Amida’s path.
榎本栄一
法話
生涯、一度も過ちを犯したことがない人はないでしょう。過ちの種類、程度、中身もありますが、宗教では心に「憎しみ」が生じることも罪になります。宗教的な罪、倫理的な罪、道徳的な罪、法律に触れる罪。罪にはさまざまな基準や種類があります。
「私はまだ、法に触れるような罪は犯したことがありません」
私はよくこう言ってきましたが、ある時、はっとしたことがあります。そう、交通違反は立派な法に触れる罪だったのです。おかげで今は何年も無事故、無違反ですが、過去には何度かスピード違反、一時停止違反などで減点されています。そしてその時には必ず、「なぜ自分が、こんなところで」と、軽い「憎しみ」が生まれるのでした。
『歎異抄』に有名な、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」(『註釈版聖典』853頁)という言葉があります。親鸞聖人にとってまことの善悪は、仏さまだけご存じの世界であったのです。この世界は「そらごと、たわごと」の世界であるというのです。「そらごと」は空言、虚言、空事などの字を当てます。むなしい言葉、いつわりの言葉、ありもしない事などをいいます。「たわごと」は戯言。正しくない言葉、たわけた言葉、ふざけた言葉の意味です。
「今日は誰か訪ねてこられた?」
「はい。○○さんがこられました」
「どんなご用?」
「到来物のおすそ分けを頂きました。そのまま上がらず、帰っていかれました」
ここで「訪ねてこられた」、「帰っていかれた」と書きましたが、我が家を中心にしているから、こうなるのです。○○さんからすれば、「訪ねていった」「帰ってきた」となります。私たちはどんな時でも、どこかに中心を置かないと、言葉にすることもできません。
今月のことばにある「ふみはずしました」とは、おそらく具体的な経験ではないでしょう。「そらごと、たわごと」の世界にある、自分の姿を言われたものと思います。そんな世界に生きる「私」が、本願のめあてであったとよろこばれていることば、それが「ここも仏の道でございました」なのでしょう。
山本 攝叡(やまもと せつえい)
浄土真宗本願寺派布教使、行信教校講師、大阪市定専坊住職
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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