2021年 8月の法語・法話

まあ、どこにおっても お慈悲の中だからのう

Ahh.., no matter where I am, it is because I am always embraced in Amida’s compassion.

山本 仏骨

法話

 人間がこの世で感じる苦しみをひとことで表現すれば、「思い通りには生きていけない」という言葉で言い尽くされるのではないでしょうか。

 私事ですが、昨年還暦を迎えました。六十年も生きていると、それなりに色々なことがありました。もちろん楽しいことや嬉しいこともありましたが、ふと思い起こされることは、辛かったことや苦しかったことのほうが多いように感じます。

 相手を深く傷つけてしまったことは、痛恨の出来事でした。

 大切な人との別れは、今でも自責の念や後悔の思いが湧いてきます。

 そのようなことを感じる自分に、思いもかけない幾多の出遇(であ)いもありました。それは、予想もしていなかった言葉や人との出遇いでした。たとえば、
  人生思い通りにならないことばかり
  そのことが私に大切なことを気づかせてくれる

 その言葉の意味をすぐに理解することはできませんでしたが、じんわりと私に響き、私を突き動かしてくれました。思い通りにはならない現実こそが、実は私を歩ませ、私を促しつづけているのです。
 そして人は、様々な現実を生きながら、光に照らされる世界に帰ることをこそ、ひたすらに願われつづけているのではないでしょうか。

まあ、どこにおってもお慈悲(じひ)の中だからのう  山本仏骨(やまもとぶっこつ)

 今月の言葉は、浄土真宗本願寺派の勧学を勤められた山本仏骨氏の言葉です。死の直前に病床でつぶやかれた言葉なのだそうです。この言葉をそのそばで直接聞き取られたお弟子さんの梯實圓(かけはしじつえん)氏は、その著『花と詩と念仏』(永田文昌堂)で、この言葉について次のように述懐されています。
病院にいようと、自宅に帰ろうと、生きようと、死のうと、お慈悲の中だという、この一言に、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあずかって生きる念仏の行者(ぎょうじゃ)のすがたが言いつくされています。

 山本仏骨氏の言われる「どこにおっても」とは、単に場所ということではないのでしょう。それは、たとえどのような状況に身を置いたとしても、ということだと受け止めています。
 「お慈悲の中」とは、いつでもどこでもどんな時でも、み仏の光は人間をけっして見捨てずに、照らしつづけているということです。そのようなみ仏の光に照らされながら、人は何かを感じ取り、何かを学んでいくべき存在なのでしょう。

 思い通りにならない現実は、これから先の人生でも必ず起こってくること。そのような人生を歩む中で、それらの出来事が自分の人生を狂わせた原因だと責任を転嫁して終わってしまうのか。それとも現実を受け止めて、そこから生き方を学び、念仏の行者としての人生を歩むのか。私に問われているのは、このことひとつなのではないでしょうか。

 傷があるがゆえに、薬が効いていく。闇があるがゆえに、光を感じ取ることができる。そのような世界を、「お慈悲の中」と表現されたのでしょう。
 どこにいても、誰もがお慈悲の中。そのような世界に向かっての歩みを、自らの歩みにしていきたいものです。

酒井 義一(さかい よしかず)

1959年生まれ。東京教区東京5組存明寺住職。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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