2021年 9月の法語・法話

如来の願心が 我一人に成就したのが 信心である

The entrusting heart is the realization of the Tathagata’s Wish and aspiration within me.

安田 理深

法話

如来の願心とは、『仏説無量寿経』というお経に説かれてある阿弥陀仏という仏さまの願いのことです。その願いとは、生きとし生ける者すべてを、迷いの世界から阿弥陀仏の世界、すなわちお浄土に生まれさせるということです。

でも今月の言葉「如来の願心が我一人に成就したのが、信心である」とあり、生きとし生ける者すべてへの願いが、なぜ私一人ということになるの? ということを思われるのではないでしょうか。実は仏法では、この私一人ということが、とても重要な鍵になるのです。

一人でなく団体というのは、100人いたら私の責任は100分の1になるということです。団体旅行は気楽ですね。バス旅行なら、眠っていても目的地に着きます。しかし一人旅となると気が抜けません。道順も自分で聞いていかなくてはいけません。阿弥陀仏は十把一絡げで救うのではありません。一人ひとりを抱いていくのです。だから阿弥陀仏の願いは、他の誰かではなく、私が聞いていかなくてはいけないのです。

またこの『仏説無量寿経』というお経には、「独り生れ独り死し、独り去り独り来る(『註釈版聖典』56頁)」とも説かれています。確かに、一人で生まれ一人で死ぬけど、生きている間は一人ではない、私には連れ合いや子や友人がいると思われる方もいると思います。しかし、この世界でほんとうに私のことを思い案じ続けている人はいるでしょうか? 逆に自分は今まで何十年と生き続けて、せめて一日24時間片時も忘れずに、誰かを案じ続けたことがあるでしょうか? 我が子のことならずっと心配しているといわれても、夜になればついうとうとしているものです。お腹がすいたら、関心は食べ物にいきます。本音として、私たち人間にとって一番関心があるのは、自分のことではないでしょうか。

だからいくら自分の苦労話を語っても、他人にはすぐ忘れられてしまいます。またいくら言い訳をしても、ほとんど真剣には聞いてもらえませんし、自分が他人の言い訳を聞く時は、そんなにも真剣には聞きません。だいたいつばきを飛ばして語っているのは言い訳です。私たちは周りに理解してもらうために、一生懸命言い訳をしながら生きているのではないでしょうか。でも、私の心の奥の奥はなかなか解ってもらえないものですし、自分だって他人の奥底は解らないし、また無理してまで解ろうとは思わないものです。

しかし阿弥陀仏は、私の底の底を見抜き、自分でさえも解らない自分の奥底を見抜き、今生だけでなく無始以来の迷いを見抜き、だからこそそんな私を救い取ると願われたのです。

ですから私たちは、阿弥陀仏の前では何の言い訳もする必要がありません。逆に、黙って阿弥陀仏の願いを聞くことをお聴聞といいます。そして知らされるのです。阿弥陀仏は無数の生きとし生けるものにはたらきかけておられるけど、私は無数の数の中の一人ではないのだということを。まさに私一人にすべてをかけてはたらきかけておられるのだということを。ですから仏の願いの成就はこの私にかかっているのだということを。私が抜けたら仏の願いは成り立たなくなるのです。

実は、『仏説無量寿経』は、今、私一人に対して説かれているのです。そして、私に届いた阿弥陀仏のそのお心のことを、信心といいます。それは私の口から出てくる南無阿弥陀仏です。
ただ今私の口から、阿弥陀仏のお心、すなわち南無阿弥陀仏が出るということが、阿弥陀仏の願いがまさに私一人に成就したということなのです。

福間 義朝(ふくま ぎちょう)

浄土真宗本願寺派布教使、布教研究課程専任講師、広島県三原市教専寺住職

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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