2021年 表紙の法語・法話

念仏となって 私の口から 現われて下さる み仏のはたらき

The working of the Buddha manifests itself as the Nembutsu whenever I say, "Namo Amida Butsu."

松野尾 潮音

法話

このお言葉について何か書くようにとご依頼をいただいた時、私の念頭に浮かびましたのが、曽我量深(そが りょうじん)先生のお言葉でした。

くしくも、二〇二〇年は曽我先生の五十回忌の年でした。先生は、私が大谷大学へ入学した当時九十歳で学長をしておられ、その年(一九六五年)の秋、真宗が何であるのか右も左もわからない私でしたが、いまから振り返れば大切な言葉に出会いました。

それは、十月に曽我先生の卒寿の記念講演会が大学の講堂で開催され、その時に先生が講題として出されたお言葉、「如来あっての信か 信あっての如来か」というものです。

講堂の正面に向かって左側に墨で大きく書かれたその講題を目にした時、〝不思議な題だな〟と思ったことを覚えています。そしてそれは、仏教は如来があってこそ成り立つものだと思っていた私にとって、そのような信仰のイメージに揺らぎを与えるものでした。

その後、その言葉はどこか気になるものであり続けましたが、その意味を問うことがないまま過ぎていきました。それが、四年ほど前にふとしたことで、その言葉の大切さに気づかされたのです。

先生は講演の中で、この言葉について「如来があるから信ずるのか。それとも信じなければ解決がつかない問題や要求を私たち人間が抱えているから、それに応えて如来は現れてくださるのか。どちらだ」という意味であるといわれ、清沢満之(きよざわまんし)師が、真宗大学(大谷大学の前身)の学長の時に若い学生たちに対して考えるようにと、問題として与えられたものであるといわれています。そして、九十歳に至るまで曽我先生の意識の深くにあって、先生を育て指導し続けてきた言葉であると語っておられます。

その言葉の意味について四年ほど前に、仏教の信仰はどのようなかたちにしろまず如来が何であるのかがわかったところから始まるのであり、それは「如来あっての信」といわれる信仰の形である。しかしそのような信仰が、様々な縁の中でいま一度問い返されることを通して「信あっての如来」への転換がおこり、そこに信仰が決定性(けっていせい)をもつものとなることを教えてくださっている言葉ではないのかと気づかされたのです。

「如来あっての信」という信仰は如来と私とが外的(がいてき)で対象的な関係にあり、如来と私との間に隙間(すきま)があります。そこに、その信仰が力をもたなくなったり、私の苦しみを救うものではなくなったりする。そのような行き詰まりの状況を破るようにして、教えが縁となって〝南無阿弥陀仏(称名念仏(しょうみょうねんぶつ))〟と、私の苦しみ・問題に応えるようにして生まれ出てくださる如来との新しい出遇いがおこる。それが「信あっての如来」という信仰の形であり、親鸞聖人はそのような如来を「たすけんとおぼしめしたちける本願」といわれているのだと思います。

そしていま一つ注意されますことは、先生は二日間の講演の中で結論にたどりついておられず、結論を出しておられないということです。「信あっての如来」が結論であることは、一年後に講演録が出版された時に、先生自身がそのタイトルを「我(われ)如来を信ずるが故に如来在(まし)ます也(なり)」とされたことによって知ることができることなのです。そこに、「信あっての如来」という如来は、様々な問題を抱えて生きている身が救いを求め、如来を尋ね続けていく生涯の歩みにおいて、常に今のこととして出遇われ続けていく如来であることを教えてくださっているものといただかれるのであります。

廣瀬 惺

1946年生まれ。大垣教区第9組妙輪寺住職。。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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