2018年 12月の法語・法話

自然というは もとより しからしむるという 言葉なり

Jinen signifies the way things are caused to be originally.

『末燈鈔』

法話

明治から昭和初期にかけて活躍した俳人川端茅舎の句に、「大年の常にもがもな弥陀如来」というものがあります。「大年」とは今で言う大晦日のことで「もがもな」は「―であったらいいな」という願望を表す言葉です。直訳すれば、「大晦日に〝いつも阿弥陀さまのような心でありたい〟と願いました」となるのでしょうか。

茅舎は大晦日の夜に、除夜の鐘でも撞きにお寺に赴いたのでしょう。そして、ご本堂にお立ちになる阿弥陀如来さまを前に自分の一年を振り返りました。

そもそも除夜の鐘は、一年の間に積もり積もった悪業煩悩(自己中心的な心と、その心によって作ってきた様々な罪)を一つずつ打ち消すために撞くものだという言い習わしがあります。冷気張りつめる境内。鐘を打ち鳴らす僧侶たちの白い息。暗闇に響き渡る梵鐘の音...。自分はこの一年間、一体どれほどの罪を作ってきたのだろうか。数え切れないほど多くの欲心を起こし、それが自分の思い通りにいかなければ怒り、人を怨み、嫉み、傷つけ、何と浅ましい生き方であったのか。そして、どれほどの尊いいのちを奪って自らのいのちとしてきたのか。生きるということは殺すということではないのか―。

百八つの鐘では到底打ち消すことができないほどの多くの煩悩を抱えた我が身。茅舎の目からは、一筋の涙がこぼれ落ちたのかも知れません。しかしそんな茅舎の目の前には、阿弥陀さまが優しいまなざしでお立ちでした。

――大丈夫だよ。あなたは今、自らの罪を意識し慚愧した、そのことがもうすでに、あなたは光に摂め取られ(救われ)ているという証拠なのです。なぜなら、あなたに自らの罪を知らせ慚愧させたのは、私の光なのですから。あなたがもし自らの罪を悔いるのならば、私の心を真実だと仰ぎなさい。あらゆる者の歓びをわが歓びとし、あらゆる者の悲しみをわが悲しみとし、あらゆるいのちの幸せを心から願い、その実現のために働き続ける。そんな私の心を真実だと仰ぎ、そのような者になりたいと願いながら浄土に向かい生き続けていきなさい―

そのような阿弥陀さまの喚び声が、茅舎のいのちの中に響いてきたのでした。

今年最後の言葉は「自然というは もとより しからしむるという言葉なり」という親鸞さまのお手紙からの引用です。「自然」とは阿弥陀さまのはたらきのことです。それは「もとよりしからしむ(私の意識を超えて、もともと、そう仕向けられている)」という言葉である」と教えてくださいました。

罪の意識など持つはずのない私が慚愧の心を起こし、浄土(仏さまの心)を尊ぶはずのない私が、往生(仏さまになりたい)というを願いを抱き、お念仏を称えようと思う心などなかった私の口から〝南無阿弥陀仏〟とお念仏がこぼれ出てくださるのは、私の思いより先に、阿弥陀さまの願いに仕向けられていたからなのです。

今月のご和讃を、もう一度味わってみてください。

田中 信勝(たなか しんしょう)

浄土真宗本願寺派布教使、仏教婦人会総連盟講師

  • 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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