2019年 表紙の法語・法話

 煩悩を断ぜずして 涅槃を得るなり

Without severing blind passions, they realize nirvana itself.

『顕浄土真実教行証文類』「行巻」

法話

この法語は「信心の智慧」(「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」第34首)そのものの知見力を語る「正信偈(しょうしんげ)」の言葉ですが、わたしたちの理知では到底読めそうにありません。

なぜなら、理知からは「煩悩を断ぜずして」という「不断」の世界が読みとれないからです。理知からすれば、煩悩を断じて(有断)こその救いと自己過信化するか、逆に人間なら煩悩はあたりまえだ(無断)と居直る堕落化かの、どちらかしかないからです。

「煩悩を断ぜずして」とは、煩悩の身の救いを、理知に依って解釈した説明語ではなく、どうすることもできない煩悩の「大切な意味」に覚醒させられた驚きの一言! 自覚語なのです。その意味でそれは、そのまま南無阿弥陀仏の喚び声であったと仰ぐほかありません。

だからこそ「涅槃を得る」と、涅槃(人生の完全燃焼)に方向づけられた生活から、煩悩の身を照らしだす「光」(涅槃)を、煩悩にまみれる生活の場でいよいよ聞き直していく歩み、挙足一歩が始まるのです。「転悪(てんあく)成徳(じょうとく)」(悪を転じて徳と成す)とは、その歩みこそ救いそのものであることを表しています。

気づいたら非婚のみちを歩んでいたという60代半ばの女性Iさんの次の述懐は、このような「不断」の世界の具体的生き様を見せてくださっているようです。

「仏法とは私にとって何なのか」と問われます。何時も漠然とした「不安」を抱えて生きてきました。そしてそれがいよいよ今、「事実」となって私に問いかけてきます。聞いた仏法を自分の心に引き寄せ、この現実を何とかしたいという思いいっぱいの毎日です。でも、私はこの自分の心に湧き上る「不安」や「恐れ」でしか、私にとっての「仏法」を問うことも確認することも出来ません。そしてこの思いが私を聴聞(ちょうもん)へと押し出してくれます。聴聞いたします。
(2017年・年賀状。原文のまま)

ここで、家庭の問題が動機となって仏法に出遇われた、団塊の世代の女性Kさんから、かつていただいたお便りに書かれていた、次の言葉が想起されます。

はからいの/すたらぬままに/歳が過ぎ
はからいのすたらぬ/この身のままに/歳が発つ
はからいの心は/つねに変わらねど
はからいのすたらぬ/このわれをこそ/聞くあゆみ

また次の方ですが、教職を定年で退職され、現在お寺の総代をされているというTさんは、在職中から、職場での問題がきっかけとなって親鸞聖人の教えに向き合われた。そんなある時、告白された言葉に痛くひきつけられた私は、今もその言葉を憶念し、歩む糧となっています。

親鸞聖人の教えにふれて、自分のこれまでの価値観とは異質なもう一つの価値観があったことに、とても驚いた。いま一つは、人生とはこんなものだと生悟り、なかばひらき直っていた自分に、生きていく一つの緊張感があたえられていくことは、とてもうれしい。

池田 勇諦(いけだ ゆうたい)

1934年生まれ。同朋大学名誉教授。三重教区西恩寺前住職。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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