2018年 11月の法語・法話

聞というは 如来のちかいの御なを 信ずともうすなり

“Hearing” means to entrust ourselves to the Name, embodying the Tathāgata’s Vow.

「尊号真像銘文」『真宗聖典』五一三頁

法話

この原稿依頼を受けた時、私は命終された恩師のお傍で夜伽をしていました。

その先生から「義盛君、来年一緒に仕事をしてくれませんか」という依頼の電話を頂戴し、私はそれを喜んで承り、これからの学びの方向性を語り合って「翌月、京都で会いましょう」と約束を交わした翌日、先生は急逝なさいました。先生の突然の訃報を聞いてからの私は、襲い来る現実に気持ちが追いつかず、戸惑いながら上洛し、約束と違う形で目を閉じられた先生と対面しました。その後、新潟県にある先生のご自坊に移動し、密葬まで先生のお傍で過ごしました。

その間、幾人かの方が弔問に訪れ、私に先生の思い出を教えてくださいました。そのお話を総合すると先生は「聞」の人でした。この間に、私も改めて先生の著作の幾つかを繙きました。すると、以前は何気なく読み進めていた言葉が、今更ながら目に飛び込んできます。その中でも「ひびき」という言葉が刻み込まれました。

仏教の学びにおいては、ひびきに学ぶことが大切です。
(文栄堂発行『聞――私の真宗学――』七五頁)

「ひびき」は「自覚」から展開します。「仏教は、他ならぬ私のために、説かれている」という自覚の下で聞かれたから、先生は仏教にひびき、この文をしたためられたのでしょう。そして私も「先生が残された幾つもの言葉は、他ならぬ私のために、語りかけている」と思うのです。

聞というは、如来のちかいの御なを信ずともうすなり。
(『尊号真像銘文』真宗聖典五一三頁)

このように、親鸞聖人にとって「聞」とは、如来の誓願を根源とした名号、つまり「南無阿弥陀仏」を信じることです。では、どうして親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」を信じるのでしょうか。

それは、親鸞聖人が「「南無阿弥陀仏」は、他ならぬ私のために、呼びかけている」と自覚したからでしょう。そう自覚した時に、親鸞聖人において、「南無阿弥陀仏」を音声として聞くばかりでなく、その音声の奥に込められた如来の誓願を聞き、如来の誓願を慶び、如来の誓願にひびき、如来の誓願を信じたと思われます。この一連が、親鸞聖人における「聞」なのでしょう。その証文が、かの有名な

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
(真宗聖典六四〇頁)

という『歎異抄』後序の文です。「阿弥陀如来の願いは、他ならぬ私一人のためであった」という自覚の下、親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」を聞かれたのです。

先生もまた、「他ならぬ私のための、仏教」という自覚の下で、念仏興隆、そして学事振興にその生涯を捧げられました。それは、「南無阿弥陀仏」を聞き、慶ばれた生涯でもあります。

「聞」の人、安冨信哉先生。

その法名を「聞慶院釋信哉」といいます。

義盛 幸規(よしもり こうき)

1972年生まれ。北海道教区法薗寺住職。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

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