2025年 12月の法語・法話

For certain, the power of the Tathagata’s Primal Vow is working right now.
村上 速水
法話
外国の観光客に人気がある飛騨高山の町並みを散歩していると、地図を持った外国人から道を尋ねられることがあります。
私は一緒に地図を覗き込み、流暢な外国語で、二つのことをお伝えしました。
「イマ、ココ!! ムキ、コッチ!! オーケイ??」
相手はとたんに笑顔になり、「サンキュー!!」と言いながら目的地へと向かっていきました。「迷う」というのは「現在地と方向がわからなくなる」ということなのですね。
でも、それは他人事ではありません。迷いの中にある私自身の人生を支え、寄り添い続けてくださる確かなはたらきこそが、南無阿弥陀仏と仕上がった如来の本願力なのです。
40代後半自称「働き盛り」の私は、自分のキャパシティ以上に増えていくさまざまなお仕事にストレスを感じながらも、忙しい日々を充実して過ごしていました。
そこで起こった突然の交通事故と入院生活により、自分が抱えていたものが全て私の手から「もぎ取られて」いったのです。それだけではなく、少しでも打ちどころが悪かったら「このまま死ぬかもしれない」という状況の一歩手前までいきました。明日も、来年も、当たり前のように私の人生が続いていくという、私の勝手な思いがもぎ取られていったのです。
私の現在地が知らされるとはこういうことなのか。明日も来年もあって当たり前だと思っていた日々は、もう来ないかもしれない。そういういのちを生きているのが私なのだ、と。
だから「今、ここでの救い」なのです。明日や来年では間に合わないこの私に、阿弥陀さまの願いは、はたらきかけられているのです。
「あなたを救う仏に私が成る。かならず救う、われにまかせよ」
これまで多くのご門徒さんに、阿弥陀さまのお心をお伝えしてきたつもりでした。でもどこかで他人事だったのかもしれません。あの事故に遭って、私は本当に心の底から「我がこと」としてその願いを聞かせていただけたように思います。
「あらゆるいのちを救う仏に私が成る」との阿弥陀さまの願いが、この私のためであったと聞かせていただく。
これが、私にとっての「今、ここでの救い」でありました。
私が積み上げてきた知識や経験を「確かなもの」であると握りしめている生き方こそが、「迷い」そのものでありました。
迷いの中で私が握りしめていたものが全てもぎ取られていく中で、その私を根底から支え、寄り添い続けてくださっているのが、阿弥陀さまのご本願のはたらきでありました。
確かなものは、私が握りしめた知識や経験ではありませんでした。お念仏申す中で、今もはたらいている如来の本願力に支えられ、寄り添われている人生を歩んでいくのです。
朝戸 臣統(あさと たかつな)
本願寺派布教使、仏教婦人会総連盟講師、布教使課程主任講師、岐阜県高山市神通寺住職
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
- ※ホームページ用に体裁を変更しております。
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