2025年 6月の法語・法話

Whatever you encounter in life will determine how your life will be.
梯 實圓
法話
「遇う」とは「ただ顔を合わせるだけではない」と梯實圓師は言われます。「遇」には「思いがけなく」という意味があります。わたしたちがどれだけ多くの人と出会い、言葉を交わそうとも、自分の言いたいことを言い、聞きたいことを聞くのみであれば、自分の「思い」の中で他者と対面しているにすぎません。「思い」もよらなかった相手の心に触れ、「思い」に覆おおわれていたわたし自身が知らされる時、「会う」は「遇う」になるのだと思います。
「遇う」ことは、ですから難しいことです。身近な家族であっても、たとえば本当に親が子に遇い、子が親に遇うということは、難しいことではないでしょうか。時には相手が亡くなり、初めて「遇う」ことが始まるということもあるでしょう。
会っていても遇えないのは、わたしたちが自分の「思い」を生きているからです。たとえるなら、お互いが、光でないものを光と思って歩んでいるようなものです。衝突するか、無視をしてやり過ごすか。そこに苦しみが生まれます。だからこそ、仏弟子たちは「仏に遇う」ことを課題に歩みました。流転の苦しみを超えたお釈迦さまに、人生を照らし出す光を求めたのです。では、仏弟子たちはどのように仏と出遇ってきたのでしょうか。次のようなエピソードが伝えられています。
お釈迦さまの時代にヴァッカリという仏弟子がいました。お釈迦さまを篤く敬っていましたが、病にかかり、お釈迦さまに会いに行くことができなくなります。お釈迦さまはヴァッカリのもとへお見舞いに行かれます。ヴァッカリは「力が衰えてしまい、お釈迦さまのもとヘ伺い、お姿を拝見することができなくなりました」と自らの悩みを打ち明けます。そのヴァッカリに対してお釈迦さまは次のようにおっしゃいます。「わたしのこの腐りゆく身体を見て何になるのですか。法を見るものがわたしを見るのです」と。
たとえお釈迦さまと同じ時代に生まれ、お釈迦さまを見ることができても、仏陀 (目覚めた人)としてのお釈迦さまを見たことにはならないのです。お釈迦さまが目覚めたところの法を真まことと受け入れること、それこそが仏陀を見ることであり、「仏に遇う」ことなのです。
仏弟子の集いである僧伽では、お釈迦さまの言葉をたよりにその法が尋ねられ、仏陀との出遇いが深められていきました。その出遇いがもつ普遍性は、法蔵菩薩(阿弥陀仏)と世自在王仏の出遇いとして説き出されます。親鸞聖人は法然上人と出遇い、南無阿弥陀仏の教えこそが、お釈迦さまの本当に伝えたかった教えであり、お釈迦さまを仏陀たらしめた法であると頷うなずかれました。親鸞聖人は法然上人を通してお釈迦さまに出遇われ、その根底にある阿弥陀仏の本願に出遇われたのです。
その本願は「南無阿弥陀仏」という喚び声となってわたしたち一人ひとりに届いています。誰の人生においても「仏に遇う」道は開かれているのです。念仏申し、教えの光に照らされればこそ、身近な人と、また亡き人とも出遇っていけるのではないでしょうか。 「つらいこともあり、苦しいこともあり、嫌なこともあったけれども、仏陀に出遇えた私の人生に悔いはありません」。梯師は、わたしたちが「仏に遇う」ならば、このように言うことのできる人生が生きられていくと教えてくださいます。
千賀 貴信(ちが たかのぶ)
1979 年生まれ。大阪教区第20組西德寺住職
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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