2024年 2月の法語・法話

念仏をはなれて仏もなく自分もない

Neither the Buddha nor the self exists outside the nenbutsu.

金子大栄

法話

 「葬式って、出んとダメかな?」

 もう何年も前、同級生にこう訊かれました。婿養子として入った地域でお葬式があり、家の代表として参ったそうですが、故人もその家族も他の参列者も、周りは自分の知らない人ばかり。「自分は、本当にこの場所にいなければならなかったのか」。その気持ち、私にはとてもよくわかる気がしました。

 私の地元ではつい十数年前まで、葬儀というものは「みんなで」行うものでした。誰かが亡くなると、たくさんの人が集まってきます。枕元で手を合わせた後、まずは親戚一同、近隣の家々を中心に、葬儀の段取りと打ち合わせが始まります。いつ・どこで・誰が・何をするのか。遺体をきれいに整えることも、棺桶を作ることも、火葬も、すべて自分たちでやる。一人ひとりに、ちゃんと「やらねばならないこと」がありました。

 けれど今、基本的にはすべてが、専門家に頼んで「やってもらう」ことです。多くの人にとって、葬儀とは、「式の間、そこに座っているだけの場」。コロナウイルス感染症への懸念から、という名目を得て、「香典を渡し、焼香だけしてUターン」となるのも無理はありません。参列者は減るばかり...。当然です。「自分たちのことじゃない」のですから。葬儀を他人に委ねることで、私たちは「死」に対する「自分の居場所」を失ったのです。

 2011年、東日本大震災の後、東京で高木慶子さんからこんな話をうかがいました。カトリックのシスターで、多くの被災者・被害者の「悲しみ」に寄り添ってこられた高木さん。その知り合いのお坊さんが、東北の被災地で、海に向かってお経を読み上げたそうです。すると、たくさんの人が同じように海に向かって、ただ静かに合掌されたのだと。キリスト教では両手の指を組み合わせて祈りますが、日本では手のひらを合わせます。「この祈りの『かたち』がいかに大切であるか、それを僧侶の人たちはきちんと伝えていってほしい」と言われました。

 私たちは、忙しい。日々、生活の必要に迫られ、自らの欲求にふり回されてしか、生きられない。けれど、本当はそれだけではないのです。何を、どれだけ頑張ろうと、自分たちではどうにもならない──たとえば生と死の境にあって、それこそ手を合わせてただ「祈る」ことしかできないような──領域が、間違いなくある。今、静かに手を合わせられる場はありますか? 「ナムアミダブツ」と口にする機会は? 葬儀にせよ何にせよ、何事も自分たちの都合のいいように、好きなようにやる、というのであれば、「神仏」は要りません。そこに見出される「個人」もまた、結局は私たちの思い一つ。好きか嫌いか、身内か他人か。「そうじゃない。いのちは、私たちの自己満足で終わっていけるものではない」。そう教えてくれる、具体的な「かたち」が必要です。

念仏をはなれて仏もなく自分もない

 浄土真宗にあって、伝えられていくべき「かたち」とは何か? ただ一つ、「ナムアミダブツ」です。簡単な言葉。けれどここに、私たちにとってのすべてがあると言われます。「あなたは、その『かけがえのないいのち』をどこで受け止めていくのですか」。金子氏の言葉は、現在の私たちに問いかけています。

内記  洸(ないきたけし)

1982年生まれ。岐阜高山教区高山2組徃還寺衆徒

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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