2024年 3月の法語・法話
Our saying, “Namo Amida Butsu” is surely proof we will be saved.
梯 實圓
法話
私の名は「ふじまる」だ。なので小学校の頃は、「まる」とか「おまる」と呼ばれていた。
小学生の時だ。1時間目の授業が始まる前に、学年1番のインテリで豆知識王のS田くんが、私のところにやってきた。そして「おまるって便所という意味なんよ。知っとった?」と冷静に言った。途端にクラスがざわついた。そして、しばらくは「便所くん」とも呼ばれることとなった。
一応、申し上げておくが、気にはならなかった。だって、お相撲さんに「武蔵丸」とかいるし、カッコイイ船にも「〇〇丸」という名前が多い。そもそも私は便所じゃないし、「牛若丸」なんて強い人もいる。だから、「まる」は全然イケてると思った。それに、しばらくすると、みんなも「おまる」が便所だということをすっかり忘れてしまった。小学生とは、そんなもんだ。
ところが、である。本願寺派の研究所に勤めるようになって、「法名」について説明する機会があり、「名前」について調べていると、(諸説ありますが)「まる」は、古語の「放る(まる)」に由来し、排せつを意味しているとわかった。汚いイメージのする言葉を名前にして、鬼や魔にとりつかれないようにしたらしい。赤ちゃんや子どもの死亡率が高い時代、幼い命をまもるために「まる」を付けたのだ。源義経も、幼い間だけ「牛若丸」と名のったのは、そういう理由だったのだ。
ものの特徴や内容を示すのが「名」だと、私たちはイメージしがちだ。確かに「のこぎりクワガタ」や「金目鯛」はそうだ。しかし希望や願いを込めて付けられる場合も多い。「まる」がそうであるように、特に人の場合はそうだ。子どもの時に「智雄・哲雄・善雄」というメモを見つけて、親が悩んで私に智雄と名付けたことがわかり嬉しく思ったことがある。願いが尊いと感じる。「南無阿弥陀仏」も、阿弥陀仏の「全てのものを救うぞ」という願いによって、私たちに与えられ、その願いの力が私の上ではたらいてくださっている。
そもそも仏さまのお名前は、救いの「はたらき」であり、ものではない。しかも全てのものを包み込む救いのはたらきだ。だから、「あみださま~」と呼んで、来てもらう必要はない。たとえば声の届かない遠くに私がいる時に、「おまる~」と呼ばれても、私は来られない。しかし、「南無阿弥陀仏」は仏さまそのものなので、お念仏する時には、もう仏さまがそこにいらっしゃる。
だから、念仏するから救われるのではなく、救いの中にいるから念仏が出てくる。順番は逆で、仏さまからの救いが先に届いているから、お念仏が出てくる。
お念仏の一声が出てくることが、まさに今、もうここではたらいてくださっている証なのだ。
藤丸 智雄(ふじまる ともお)
武蔵野大学非常勤講師、岡山理科大学非常勤講師、前浄土真宗本願寺派総合研究所副所長、兵庫教区岡山南組源照寺住職
- 本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載
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