2021年 6月の法語・法話
The entrusting heart is the occurrence of the sharing of the same life between ordinary beings and the Buddha.
大峰 顯
法話
浄土真宗の仏道(ぶつどう)では「信心(しんじん)」が極めて重要な意味を示します。その信心とは、たとえば『歎異抄(たんにしょう)』で「如来(にょらい)よりたまわりたる信心」と述べるように、仏からいただく信心であると説かれています。ところが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)が修学してきた仏教全体の背景を見渡すとどうでしょうか。「いただく信心」「与えられる信心」というよりは、むしろ「起こす信心」が仏教の基本であります。無論、この場合の主体者は「自分が」です。
さて、このように考え合わせると、はたして宗祖(しゅうそ)自身は自らをどのように見つめていたのか問題となります。ここで確かめたいことは、親鸞聖人は、ご自分を「聖者(しょうじゃ)」ではなく「凡夫(ぼんぶ)」として、身の事実を置いていたことです。後世の人々が「聖人」と尊称するので、ともすると宗祖は我々と違う存在と考えがちです。あくまで親鸞聖人は如来の眼から捉えると、自身は「凡夫」であると頷かれたのです。
もし「聖者」であったならば、自分の上において智慧(ちえ)を見開き、仏道を歩まねばなりません。仏の智慧が顕現(けん げん)するとは、同時に自己の煩悩を淘汰(とうた)していくことを示します。要するに我々の現実は常に煩悩に覆われてはいますが、本来「自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)」であることを信じて疑わない志向(しこう)です。これは聖者の仏道としては基本的な考え方です。ところが、この聖者の歩みは、能力や知性、努力、身体の健康など、必ず「条件」を伴います。条件がそろわなければ、仏道が成就されません。親鸞聖人はそのような聖者(行者(ぎょうじゃ))の上において仏の智慧を得ようとする志向を大きく転換させました。
少し前に学友から一つ教わったことがあります。皆が三十代後半になり、それぞれ家庭をもつ年齢になりました。幼い子どもがおり、お互い子育ての話が出ます。ある時、学友が恩師から聞いた言葉を教えてくれました。「子どもは育てるものではなく、育つものなんだ」という一言でした。これが大変重い言葉に聞こえました。私にも三歳の子どもがいます。確かに親として見守り成長を観察しているのですが、どのように育てようかと意思が働きます。とはいえ、育つ主体は子ども本人です。
この言葉を通じて、親からの願いが、育てようとする「はからい」になってしまい、かえって子どもそのものを束縛してしまう怖れを感じました。「子どもは育つもの」という視座に立てば、親も子も共に無量寿(むりょう じゅ)である「同じ命」の只中であると知らされます。
子どもは育っていくもの...。同時にそれは、親も育っていくものと共有できます。これは決して社会的責任を放棄したのではなく、いわゆる親子の関係は絶えず同時成立であるという道理そのものです。親と子は言語化すれば、差(しゃ)別(べつ)があります。しかし如来の眼から見れば無縁大悲(むえんだいひ)の平等です。親鸞聖人はそのような眼を
「煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)の凡夫」
(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』証巻『真宗聖典』二八〇頁)
と見極めました。そして、そのような虚仮(こけ)不実な私自身の姿だからこそ「信心」は如来よりいただくものと確信できたのです。
藤村 潔(ふじむら きよし)
1980年生まれ。親鸞仏教センター研究員。大垣教区第16組南明寺衆徒。
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
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