2020年 3月の法語・法話
When you don't understand the real thing, you take the unreal the real.
安田 理深(やすだ りじん)
法話
この言葉の後は、安田理深(やすだりじん)師の『講述「化身土(けしんど)巻」』(東海聞法学習会)の中では次のように続いています。
仏智(ぶっち)がわからないと、それならやめておこうというわけにいかない。仏智がわからんと、今度は理性を仏智にする。こういうことが出てくるのでないか。
この文章から推測すると、「本当のもの」とは仏智であり、「本当でないもの」とは理性ということになります。理性という言葉の厳密な意味は私にとって難しいですが、ここで安田師が言われている理性とは、「こうだとすると、こうに違いない」と、自分の経験を基にして結論を推測することだと思います。それはとても大事な人間の能力ではあるのですが、問題は、単なる推測であるにもかかわらず、それを「本当のもの」、あるいは「本当のこと」としてしまって、その結論を「本当である」と捉われてしまうところにあるのです。
私たちの日暮らしの中でも、「自分の経験してきたことこそ間違いないことだ。それは自分だけでなくどんな人にも通用することだ」と勝手に物事を決めつけて、それを自分でそう思い込むだけでなく、さらには人にも押し付けてしまうことがあるのではないでしょうか。その結論を「思い込みに過ぎない」と容易に気づくことができたとしたら、人間関係上において起こってくるさまざまなトラブルはかなり少なくなるような気がします。それほど、一度決めてしまった結論が「私の思い込みに過ぎなかった」と気づくことは、私たちにとっては極めて難しいことなのかもしれません。
先程の安田師の言葉は、さらに次のように続きます。
仏智がわからないと、仏智はこういうものだと決めたら、これは仏智にならないのでないか。仏智でなしに、仏智の教理でしょう。
このことは仏教だけに限らないと思います。私たちが何を学ぶにしても、それを学び続け、ある程度の自信がついてくる時、自信と共にそこに何か「おごり」のようなものが必ず出てくるのではないでしょうか。「わかったつもり」になっているだけで、実は本当はよくわかっていない。しかし、その〈つもり〉が邪魔をして、もう一度、自分が学んだことを問い直し、学び直すということがなくなってしまうのです。
北陸地方で安田師がお話される聞法(もんぽう)会がありました。安田師のお話の後、師を囲んでの座談(ざだん)会があり、私の父はその座談会に参加していました。その父から聞いた話ですが、座談会に参加していたある聞法熱心な方に安田師はこのように言われました。「君は何でもわかった〈つもり〉で生きているんじゃないかね?」。
するとその方はあわててこう言い返したそうです。「私は決して〈つもり〉で生きている〈つもり〉はない!」と。
仏智とは、「あなたは何でもわかった〈つもり〉で生きているのではないか」という仏から我われへの問いかけなのではないでしょうか。
平野 喜之(ひらの よしゆき)
1964年生まれ。金沢教区淨專寺住職。
- 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
- ※ホームページ用に体裁を変更しております。
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