2019年 12月の法語・法話

信心あらんひと むなしく生死にとどまることなし

Anyone who has the entrusting heart never meaninglessly remains in the world of birth-and-death.

『一念多念文意』

法話

この法語は、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)が85歳の時につくられた『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』という仮名文に見える一節です。

聖人は晩年、京都へ帰られてからは関東の門弟たちを気遣い、とくに84歳の時には、「信心(しんじん)」の問題をめぐって、わが子善鸞(ぜんらん)を義絶(ぎぜつ)するという痛ましい目に遭(あ)われました。そういう苦悩を背負って、「お聖教(しょうぎょう)」をとおして門徒衆(もんとしゅう)とともに、精魂こめて信心を確かめられたのですね。そこには、晩年の聖人にとって、「信心」こそがかけがえのない大問題であったことが、よく伺えるのです。

私は最近、体力も精神力も衰え、米寿に近づくという《はかなさ》を感ずるようになりました。それは間違いなく死期に近づいているという不安・おそれでもあります。その不安は誰かに語るのは難しく、孤独感に陥ることでもあります。そこで「生きる目標」「人生の目的」といった終生の課題が、見えにくくなりながら、しかも一層重くのしかかってくるのです。そしてその課題とは、親鸞聖人の「信心によって、むなしく生死にとどまらない」生き方として、私に語りかけてくださることでなければなりません。

ここに掲載されたのは、「一念か、多念か」をめぐる問題を論ずる中で、天親菩薩(てんじんぼさつ)の『浄土論(じょうどろん)』にある「観仏(かんぶつ)本願力(ほんがんりき) 遇無空過者(ぐむくかしゃ) 能令速満足(のうりょうそくまんぞく) 功徳大宝海(くどくだいほうかい)」(真宗聖典137頁)の偈頌(げじゅ)を引用し、その意味をやさしい言葉にかみくだいて、説明されている部分です。

まず「観」についてですが、この文字は、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)においては、最も大切な修行法をあらわす言葉でありました。特に、聖人は天台宗の比叡山で長い間修行されましたが、その中心は「止観業(しかんごう)」という、精神を一点に集中して、わが「仏性(ぶっしょう)」とか「真如(しんにょ)」とかを自覚するという、最も厳しくわが心身を観察することでありました。ところが親鸞聖人は、その「観」について

「願力(がんりき)をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり」
(『一念多念文意』真宗聖典543頁)

と教えているのです。つまり「仏さま」を「わが眼(まなこ)をもって観(み)る」よりも、仏さまの本願・慈悲が私に「はたらき続けてくださる」ことに気づく、という意味に受け取られたと思われるのです。したがって「遇(もうあう)」もまた、「本願力を信ずるなり」と了解されたことは、本願力を憶念(おくねん)し仰信(ぎょうしん)することが、「功徳大宝海を速かに満足せしむ」ことだと受けとめられたからでしょう。

そこに、人間の生きる目的、「信心に生きる」ことを、はっきりと示してくださっていることを、あらためて考えてみなければならないと思います。

福島 光哉(ふくしま こうさい)

1932年生まれ。大谷大学名誉教授。大垣教区永壽寺前住職。

  • 東本願寺出版(大谷派)発行『今日のことば』より転載
  • ※ホームページ用に体裁を変更しております。
  • ※本文の著作権は作者本人に属しております。

「今月の法語」は、真宗教団連合発行の『法語カレンダー』に掲載の月々の法語をご紹介しています。
『法語カレンダー』は各宗派にてお求めいただけますので、お問合せください。